【中学歴史】古代までの日本の要点まとめ

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【中学歴史】古代までの日本の要点まとめです。

「日本列島の誕生と縄文文化」から「奈良時代の人々のくらし」をまとめています。

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日本列島の誕生と縄文文化の要点

日本の旧石器時代は、氷河時代に大陸が陸続きになっていた時代に、日本にもマンモス・ナウマンゾウ・オオツノジカ・野牛など大形の動物が住んでいました。

打製石器の槍で狩りをし、獲物を追って移動していました。簡単な小屋や岩がけなどに住んで、火を使って暮らしていました。野尻湖(長野県)では、ナウマン象の牙やオオツノシカの角が発見されています。

  • 岩宿遺跡(群馬県)…黒曜石で作られた打製石器が発見された。

最後の氷河期が終わると海面が上昇し、大陸から離れ日本列島は、できました。

縄文土器は、厚手で黒褐色(こくかっしょく)をしています。表面に縄目のような文様(もんよう)がつけられていることが多いです。縄文時代は、縄文土器が作られた頃の文化を縄文文化といい、この時代を縄文時代といいます。

人々の生活

植物の栽培が始まりましたが、食料が豊富なため、狩りや採集が多く、農耕・牧畜あまり発達しなかったです。

  • 貝塚…海岸や水辺にできた食べ物の残りかすなどを捨てたあとです。
  • たて穴住居…地面を彫りくぼめて柱をたて、その上に屋根をかけた住居。人々は、集団を作って暮らしていました。
  • 土偶…魔除けや植物の豊かさをいのる時に使われたと考えられます。
  • 遺跡…三内丸遺跡(青森県)など

大人になったことを示す抜歯や、使者の霊を災い(わざわい)を防ぐために屈葬(くっそう)などもありました。

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弥生時代の要点

弥生文化の成立がします。稲作の伝来は、紀元前4世紀頃に、大陸(おもに朝鮮半島)から九州北部に伝わります。弥生時代の始まりを紀元前10世紀頃とする説もあります。)

  • 人々は水田の近くに、むらをつくって、たて穴式住居に住みます。
  • 高床倉庫…ねずみや湿気を防ぐために作られ、収穫した米を蓄えます。
  • 稲の穂をかり取るために、石包丁を利用しました。

金属器の伝来
稲作とともに大陸から伝わります。

  • 青銅器…祭りのための宝物(銅鏡・銅鐸・銅剣など)
  • 鉄器…武器や工具として用いられています。
  • 弥生土器…高温で焼かれたため、赤褐色をしています。薄手で固めの土器です。

遺跡
登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)など。

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な集落で、二重のほりに囲まれ、ところどころに見張りのための物見やぐらが建てられていた。このことから周辺のくにと争いがあったことが予想されます。

国々の誕生

  • 稲作がさかんになると、社会の仕組みが変わります。支配者の誕生。
  • 小さな国々ができ、人々を支配する有力者(豪族)や王が出現。
  • 「漢書」…紀元前後のころ、倭(日本)には100余りの国があり、楽浪郡を通じて漢に使いを送る国もありました。
  • 「後漢書」…1世紀半ばに、倭の奴国の王が、後漢に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王」が刻まれた金印を授けられます。

東アジア情勢

大陸の情勢と国のテロ 紀元前後の日本は、100余りの小国が分立していた。中国では、長く漢が支配を続けていたが、220年に漢(後漢)が農民の反乱で滅びた。その後は魏・呉・蜀の3国が中国を分割して争う三国時代となった。朝鮮半島には、漢が紀元前108年に楽浪郡をおいていたが、その後、3世紀初めごろに公孫氏(遼東地域の支配者)が楽浪郡の南部をさいて帯方郡をおいた。

朝鮮半島北部では、紀元前後ごろの日本は、前漢の歴史を記した『漢書』地理志によると、100余りの小国が分立していたとある。また、『後漢書』東夷伝には、この小国の一つである奴国の王が使節を送って、57年に後漢の光武帝に貢ぎ物を贈り、皇帝から金印を授かったと記されている。

邪馬台国

魏についての歴史を書いた『魏志』倭人伝には、邪馬台国は2世紀末ごろに成立し、30余りの小国を従えていたと記されている。卑弥呼は諸国の王たちによって女王に立てられ、まじないによる政治を行っていた。卑弥呼は宮殿の奥深くに住んでいて、人前には出ず、政務は弟があたっていた。邪馬台国には、大人(支配者)・下戸 (庶民=一般の人々)・生口(奴隷)という身分があり、人々は 農耕・漁・織物などの仕事にたずさわっていた。

239年、卑弥呼は魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印や100枚の銅鏡などを授かったとされる。また、卑弥呼が218年ごろに亡くなると、大きな墓がつくられたという。その後、男王が立てられたが争いが続いたため、壱与(台与) が女王となったが、266年に中国に使者を送ったのを最後として、邪馬台国についての記述は歴史書から姿を消した。邪馬台国の位置は九州北部説、または畿内説(大和説)が有力だが、まだ確定されていない。

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大和政権の発展

古墳と大和政権についてです。大和政権は、3世紀後半、奈良盆地を中心とする地域に王を中心として生まれた強力な勢力です。王や豪族を葬るために、大きな墓である古墳が作られました。

大和政権の支配の拡大にともない、前方後円墳などの古墳が全国各地に豪族によって作られます。

古墳時代

古墳が盛んに作られた6世紀末頃までの時代を古墳時代といいます。大仙古墳は、5世紀に作られた前方後円墳で世界最大級の墓。全長486mです。大阪府堺市にあります。

  • 前方後円墳の分布…前方後円墳が集中してるところは、有力な豪族がいたと考えられます。吉備(岡山県)や筑紫(福岡県)など大和政権に対抗した伝承を持つ地域もあります。

古墳文化

  • 古墳…表面に石が敷き詰められています。円筒型や人物、家屋、馬などの形をした土製の埴輪が置かれました。
  • 石室(死者をおさめた棺を置くための部屋)や棺…銅鏡、王、銅剣などの祭りの道具が、後には、かんむり、馬具、鉄製の武器や農具がおさめられました。

信仰と神話

  • 信仰…太陽神、水を支配するへびの神などの自然の神々、一族を守る神。
  • 神話や伝承…国のおこりや大和政権の王についての神話や伝承が形づくられます。のちにまとめられた神話などから、死後の世界についての考え方が知ることができます。

中国と朝鮮半島との交流

5世紀のアジアの勢力図

  • 南北朝時代…4世紀ごろから国内が分裂します。5世紀ごろから南北に分かれて、国々の対立が続きます。
  • 宋書(南朝の宋の歴史書)…倭の王が南朝の宋に度々使い送ったことが記されています。
  • 紀元前後に起こった高句麗と4世紀頃に起こった百済、新羅の三国がたがいに勢力を失います。
  • 大和政権…百済や任那地域の国々と結んで、高句麗や新羅と戦います。

この頃の日本

  • 5世紀には、大和政権の王は、九州地方から東北地方南部に至る各地の豪族を従え、大王と呼ばれていました。
  • 倭の王としての地位と朝鮮半島南部の軍事的な指揮権を中国の皇帝に認めてもらうため、倭の五王(5人の王)がたびたび使い送っていました。このことは、宋書に記されていています。

大陸文化を伝えた渡来人

渡来人は、朝鮮半島から日本列島に一族までまとまって、移り住んできた人々です。

<伝えたこと>

  • 鉄製の農具を広め、農業用の大きなため池を作る技術を伝えます。
  • 須恵器(高温で焼く、かたく黒っぽい土地)や上質の絹織物をつくる技術を伝えます。
  • 財政や政治面での活躍…朝廷の記録や外国への手紙の作成などにあたります。
  • 漢字や儒学を伝え、6世紀半ばには、仏教(釈迦)が開いた宗教を伝えました。
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飛鳥時代の要点

6世紀ごろの内外の動きとして、

  • 朝鮮半島…百済や新羅や勢力を強めます。伽耶(かや)地域の国々を併合します。
  • 中国…6世紀末に隋が南北朝を統一し、強大な帝国を築きます。
  • 国内…地方は、豪族の反乱があり、大和政権内では、蘇我氏と物部氏が争いが続いていました。

聖徳太子の政治

推古天皇の摂政(天皇が女性の場合はその時に天皇の代理として政治を行う)になり、蘇我馬子と協力して大王(天皇)を中心とする政治制度を整えました。

  • 冠位十二階の制度…冠の色などで地位を区別します。家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を役人に取り立てました。
  • 十七条の憲法…役人の心構えを示しました。
  • 遣隋使の派遣…隋の制度や文化を取り入るため、小野妹子を派遣しました。留学生も僧も同行しました。
  • 仏教を広める法隆寺など寺院を建てます。

飛鳥文化

飛鳥文化の特色として、飛鳥文化は、天皇や豪族中心の最初の仏教文化。6世紀末から平城京に移るまでの約120年の間、大和の飛鳥地方(奈良盆地南部)には、一時期をのぞいて、歴代の天皇の都がおかれていました。

飛鳥文化は、遣隋使渡来人などによって伝えられた中国・ギリシャ・ペルシャ・インドなどの文化の影響を強く受けて、国際性のある文化となっています。

聖徳太子や蘇我馬子を中核とする大和政権が、仏教を保護し信仰をすすめたことから、都のおかれた飛鳥地方で、天皇や豪族を中心としたわが国最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えました。

渡来人
朝鮮半島から一族でまとまって日本に移り住んだ人々を渡来人といいます。また、漢字の読み書きの能力を認められた渡来人は、朝廷の記録、外国への手紙の作成などにあたりました。朝鮮半島の戦乱をのがれ、日本にわたってきた渡来人も数多くいました。

飛鳥時代の代表的な建築物
法隆寺に代表される文化です。仏教の広がりとともに、豪族たちは古墳に代わって、氏寺として寺院を建設するようになっていました。

法隆寺
7世紀初めに聖徳太子が建てたといわれる法隆寺は、1度焼けて再建されたもので、飛鳥時代の建 築様式を伝えていて、飛鳥文化を代表するものとなっている。中門や金堂・五重塔は現存する世界最古の木造建築です。このほかに、四天王寺や中宮寺などが知られています。

飛鳥時代の彫刻
法隆寺金堂の本尊釈迦三尊像は、中国の南北朝時代の影響がうかがえ、渡来人の子孫である鞍作鳥(止利仏師)の作といわれています。このほかに、法隆寺の 百済観音像、中宮寺・広隆寺の弥勒菩薩像(半跏思惟像)などがあります。工芸品としては、法隆寺の玉虫厨子や中宮寺 の天寿国繍帳の残片が代表的なもので、西方諸国の文化の影響が見られます。

飛鳥時代の仏教
6世紀の半ばに仏教や経典が百済からおくられ、仏教が伝えられました。祖先の死後の世界の幸福や病気の回復をいのる手段として信じられます。豪族の中には古墳にかわって寺を作ることで権威を示そうとする者が出現しました。

飛鳥時代の道具・技術
鉄製の農具 農業用のため池をつくる技術、かたく黒っぽい色の須恵器を焼く技術、上質の絹織物をつくる技術など。

  • 登り窯…須恵器は登り窯と呼ばれる新しい窯で焼かれました。登り窯は窯の中を階段状にして熱を効率よく利用し、高い温度が出せるように工夫された窯で、現在でも使われています。

大化の改新

天皇 要点 年号 出来事
皇極 蘇我蝦夷・入鹿の父子の君臨 643 入鹿が聖徳太子の子を自殺させる
645 乙巳の変…中大兄皇子、中臣鎌足らが入鹿を暗殺・蝦夷は自殺
孝徳 大化改新 646 改新の詔

聖徳太子の死後、独裁的な政治をしていた蘇我蝦夷・入鹿の親子を中大兄皇子や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らが倒して、新しい政治の仕組みをつくる改革を始めました。 朝廷の組織を整え、権力の集中を目指しました。日本で初めて「大化」という年号が使われました。

  • 難波宮…都を難波(大阪府)に移しました。
  • 公地・公民…それまで豪族が支配した土地を人々を国家が直接支配します。

改新の詔

  • 公地公民…食封・布帛の支給
  • 地方行政区画の設定
  • 戸籍・計帳をつくり、班田収受法をおこなう
  • 統一的な税制の確率

中央集権的な交通・軍事制度などが確立していきます。

中国・朝鮮半島の動き

  • 中国…7世紀の初め、隋が滅びるが統一。律令などの法律を作り、戸籍に登録した人々に土地を与え、税や兵役を負担させました。都の長安が栄、大帝国をつくり上げました。
  • 朝鮮半島…唐と結んだ新羅が百済・高句麗を滅ぼします。日本は百済を助けるために軍送りましたが、白村江の戦いに敗れます。新羅が朝鮮半島を統一します。

政治の進展
白村江の戦いで敗れました。その結果、西日本の各地に山城を築き、唐・新羅からの攻撃に備えます。中大兄皇子は、大津宮(滋賀県)に都を移し、即位して天智天皇となりました。初めて全国の戸籍を作るなど、政治改革を進めました。

  • 壬申の乱…天智天皇の没後の跡継ぎ争い。大友王子との戦いに勝って、天武天皇が即位。

律令国家の歩み

天武天皇は、天皇の地位を大幅に高め、都を再び飛鳥に都を移し、律令や歴史書の編さんを命じました。

  • 天武天皇の没後、その皇后が持統天皇として即位。
  • 本格的な都である藤原京をつくる。
  • 律令制度を実施する準備を整える。
  • この頃、日本という国は定められました、

藤原京は、持統天皇が、天皇の権力を強めようとして、大和三山(耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)・香具山(かぐやま))に囲まれた地に作った。中国の都にならい、道路によって碁盤の目のように区画されています。

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奈良時代の要点

律令国家と奈良時代に関して、律令国家の成立から奈良時代の人々のくらし、天平文化などにふれています。

律令国家の成立

701年、唐の法律にならい、全国を支配するしくみを細かく定めた大宝律令が制定されます。

律令国家とは、律令にもとづいて政治を行う国家。「律」は、刑罰のきまりで、「令」は、政治を行ううえでのきまりです。天皇と貴族が中心となって運営しています。

・中央…神祇官と太政官の2官の下に8省。都の警備に五衛府。天皇を中心とする政府を朝廷といいます。
・地方…国・郡に分け、国には国府を置き、都から国司を派遣。国司の下には地方の豪族を郡司に任命しました。現在の福岡県に大宰府、宮城県に多賀城があり、それぞれ九州地方と東北地方の政治や外交・防衛、軍事にあたりました。
・五畿七道…全国を、都周辺の機内と7つの道に分けました。都と地方を結ぶ道路を整備します。駅を設け、乗り継ぎ用の馬を用意しています。

■ 平城京
唐の都長安(西安)にならって、奈良盆地北部につくられました。平城宮を北の中央に置き、碁盤の目のように区画。東西2つの市では、各地の産物などを売買されました。このころ日本で最初の銅銭である富本銭がつくられました。唐にならって、和同開珎などの貨幣も発行しました。

聖武天皇の政治

聖武天皇が在位した720~740年代は凶作が続き、疫病が流行するなど社会不安が広がっていた。

仏教は国家の平安と繁栄をもたらし、人々を幸福にする力をもつとされていた。そこで、聖武天皇は仏教の鎮護国家の思想で国の平安を保とうと、国ごとに国分寺国分尼寺を、都に総国分寺として東大寺を建て、大仏を造立した。国分寺や東大寺大仏の造立などで律令国家の財政が悪化し、たび重なる労役への動員で人々の生活は苦しくなっていった。

■ 仏教保護政策
いっぽう、聖武天皇がおし進めた仏教保護の政策は、道鏡などの僧が政治に進出してくるもとになった。このころ、社会事業につくす人々が現れ、光明皇后が悲田院施薬院を設けて、みなしごや病人を救った。

また、僧の行基は布教のかたわら、諸国をまわって橋や用水路などをつくり、政府の要請で大仏の造立にも積極的に協力した。

■ 和同開珎
708年に和同開珎が鋳造され、長い間、わが国最古の貨幣といわれてきたが、1998年に飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)から富本銭が発見され、これが和同開珎よりも古く、7世紀後半に鋳造された最古の貨幣と考えられている。

奈良時代の人々のくらし

律令国家のもとで、人々の身分区切られ、税の負担などが課されました。人々は良民と賎民に分けて戸籍に登録され、6歳以上のすべての人に口分田が与えられました。奈良時代の農民は、口分田からの収穫だけでは生活は苦しかった。

奈良時代の農民の多くは、たて穴住居に住んでいたが、都の周辺では平地式の掘立柱住居に住む者が増えてきた。農民は、国から貸しあたえられた口分田を耕し、稲のほか、畑で青菜やナス・ウリなどを育てていたようだが、生活は苦しかった。

食事は玄米(精白してない米)と青菜の汁・塩がおもな献立で、1日2食が普通だった。しかし、鉄製農具の広がりなどによって、稲の収穫量はしだいに増加してきた。

■ 戸籍・口分田
戸籍は、律令の規定にもとづいて6年ごとにつくられました。戸主と家族の氏名・年齢・身分などが記録され、人々に土地(口分田)を支給するもととなる重要な書類でした。

人々は良民(貴族、税を負担する公民 特別な技能を持った人々など)と農民(奴婢など)に分けられ、戸籍に登録されました。

・貴族…良民のうち、ごく限られた人々が貴族でした。貴族は政府で太政官などの高い地位につきました。高い給与、広い土地をあたえられ、その特権は子孫に引きつがれました。
・賤民…奴婢。政府に使役される人々などがいました。奴婢は牛や馬と同じように売買され、奴婢以外の人との結婚は禁じられ、子どもも奴婢とされました。

農民らの中には重い税や苦しい労役からのがれるために、戸籍の性別や年齢をいつわったり、口分田を捨てて逃亡して貴族や寺社の私有民となったり、かってに僧となって税をまぬがれる者もあった。さらには、本籍地をはなれて浮浪する者が跡を絶たなかった。『万葉集』の中に収められた山上憶良の「貧窮問答歌」からは、このころの貧しい農民の生活 のようすをうかがうことができる。

■ 班田収授法
班田収授法は、人々に土地(口分田)をあたえるかわりに税を負担させるしくみです。

  1. 戸籍に登録された6歳以上のすべての人に、国から口分田があたえられました。
  2. あたえられる口分田の面積は、性別・身分によって異なりました。
  3. 口分田の面積に応じて組が課せられました。
  4. その人が死ねば、国に口分田を返させました。

奈良時代の農民の税

農民は、租・調・庸、雑徭などの税のほか、兵役(皇居を警備する衛士や、大宰府で西国の防備にあたる防人)も課せられたが、それ以外に、調や庸を都に運ぶ義務もあった。調や庸は農民の中から運脚とよばれる人夫が選ばれて運んだが、旅費・食事などは農民の負担だった。

  • …口分田から収穫された稲の3%を国府におさめました。おさめられた稲は国や郡の倉庫におさめられました。
  • 調…絹糸や特産物を中央政府におさめました。一般の成人男子に課せられ、都への運搬も負担させられました。
  • …労役のかわりに布(麻布)を中央政府におさめました。調と同じように一般の成人男子が負担しました。
  • 雑徭…国府のもとで土木工事などの労役に従事しました。1年間に60日以内と期間が定められていました。
  • 兵役…21歳以上の男子は、3~4人に1人の割合で訓練を受けました。一部は、都で1年間や九州の防衛にあたる防人として3年間の軍務につきました。

さらに、国司が国の財源を確保するために、農民に稲を貸しつけて、高い利子を取る出挙があり、豊かな農民も私的に出挙を行ったので、農民の生活はたいへん苦しかった。

荘園の成立

墾田永年私財法(743年)によって、新しく開墾した土地の永久私有が認められるようになった。

そこで、有力な貴族や寺社は国司や郡司の協力を得て、付近の逃亡農民などを使って大規模な開発を行い、私有地を広げていきました。この私有地が、荘園です。10世紀までに衰退してしていきます。

荘園が増加してくると、国が口分田として支給する公有地が不足したため、班田収授法は行えなくなり、公地公民制はもとより律令制度そのものがくずれていきました。朝廷の収入は減りつづけ、統治する力も弱まっていきました。

■ 後期の荘園(寄進地系荘園)
地方豪族は荘園領主に土地を寄進し、保護を受けました。

国司の中には任国に行かずに収入だけを得る者や、任国におもむいても私利をむさぼり、地方政治をかえりみない者も多くいました。開発領主(有力農民)や郡司などの地方豪族は、国司の圧迫からのがれ、開墾して広げた私有地を保護してもらうために、中央の有力な貴族や寺社に土地を寄進しました。こうして成立した荘園を寄進地系荘園といいます。

荘園の寄進を受けた有力な貴族や寺社は、名目上の所有者となり、土地を寄進した豪族は、荘園領主から荘官に任じられて土地の管理や年貢の取り立てにあたり、領主に年貢を納めるとともに、荘園の実権をにぎりました。

荘園で働く農民は「荘民」とよばれ、名主 (私有地をもつ農民)がその中心だったが、有力な名主の中には、荘官となる者もいました。

やがて荘園領主は、朝廷や国司に税を免除してもらう不輸の権国衙(国司が執務する役所)の役人の立ち入りをこばむ不入の権を得ます。不輸・不入の権の拡大によって、 荘園での土地・人民の私的支配が強まり、荘園は朝廷の支配から独立した土地になっていきました。

■ 地頭の荘園侵略
地頭は荘園の侵略を進めていきます。執権政治が確立すると、地頭となった御家人は、鎌倉幕府の権威を背景に、荘園領主にさし出す年貢を横取りしたり、農民に労役を課したりしました。また、荘園内の荘官(管理者)や名主を従えて土地を自分のものにしようとしたため、荘園領主と対立するようになります。

荘園領主は、地頭の荘園侵略をくい止めようとしますが、 やがて困難になり、地頭に荘園の管理権を認めたり(地頭請)。荘園の半分をあたえたりした(下地中分)。こうして、地頭が荘園を獲得していきます。

天平文化

唐の制度や文化を取り入れるためたびたび遣唐使を派遣しました。天平文化は、聖武天皇のことの「天平」年間を中心とする仏教文化です。また、唐、西アジア、インドなどの文化の影響を受けた国際直豊かな文化です。

聖武天皇と光明皇后は、仏教の力にたよって国家を守ろうと、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てました。また、都には、東大寺を建て、金銅の大仏をつくらせた。

東大寺の正倉院は、校倉造で、聖武天皇の遺品などをおさめた宝庫で、シルクロードをとって西アジアやインドから伝わった工芸品もおさめられています。

行基…一般の人々の間で不況。橋や用水路をつくりました。
鑑真…日本にわたろうとして何度も遭難し、盲目になって来日した唐の僧。正しい仏教の教えを広めました。また、唐招提寺(とうしょうだいじ)も建てました。

■ 天平文化の歴史書

  • 古事記日本書紀…神話や伝承、記録などをもとにまとめた歴史書。
  • 風土記…地方の国ごとに、自然、産物、伝説などを記した地理書。
  • 万葉集…天皇や貴族、防人や農民などの和歌約4500首をおさめてあります。大伴家持(おおとものやかもち)がまとめたといわれています。

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