【中学歴史】大正期のアジアの民族運動の要点まとめノート

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【中学歴史】大正期のアジアの民族運動の要点まとめノートです。

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辛亥革命

大正期のアジア民族運動の年表
中国では、列強諸国による侵略に対抗する動きが強まり、腐敗した清朝を倒して漢民族の独立を勝ちとり、近代国家をつくろうとする革命運動がさかんになっていた。1905年、東京で孫文(広州での決起に失敗し、日本に亡命)を総理とする中国同盟会が結ばれ、辛亥革命運動の中心勢力となった。

1911年7月、清政府が外国から資本を借りて民間鉄道を国有化しようしたことが発端となって、四川省で民衆の反政府運動がおこった。

こうした民衆の動きに応じて、1911年10月、中国南部の長江中流域の信(現在の武漢)で軍隊が反乱をおこし、ここに辛亥革命が始まった。革命運動はまたたく間に全国に広がり、24省のうち14省 が清朝からの独立を宣言した。

孫文の三民主義
孫文は、三民主義を唱え、民族の独立と近代国家建設を目指す革命運動の中心となりました。民族主義・民権主義・民生主義の三民主義を唱えて革命運動を指導し、のちに「中国革命の父」とよばれた。

中華民国の成立

1912年1月1日、革命軍は南京を首都として中華民国の成立を宣言し、孫文を臨時大総統にむかえた。アジアで最初の共和国であった。

これに対して清政府は、軍閥の袁世凱に革命政府を討つように命じたが、袁世凱は孫文と手を結んで、1912年2月 清朝最後の皇帝の宣統帝(薄儀)に退位をせまって、300年ほど続いた清朝を滅ぼした。

その後、袁世凱は、孫文を退けて中華民国大総統とな自都を北京に移して革命派を弾圧し、議会を無視して独裁的な政治を展開した。

袁世凱の死後、各地の軍閥が独立した地方政権のようになり、広州に本拠地をおいた孫文も1919年に中国国民党を結成して軍閥に対抗した。

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五・四運動

中国は、パリ講和会議で二十一か条の要求(内容については、次の段落)の取り消しを求めたが無視されたため、1919年5月4日、北京大学の学生らが講和条約に反対し、二十一か条の要求の破棄を求めて、抗議行動をおこした。

この運動は中国全土に広がり、日本などの帝国主義勢力や軍閥に反対する愛国的民主運動へと発展した。中国の人々は強く反発し、5月9日を「国恥記念日」として、各地ではげしい反日運動となる。

これをきっかけに、孫文らは1919年に中国国民党を結成し、1921年には中国共産党も結成された。両党は協力して軍閥打倒をさけぶとともに、イギリスや日本などの帝国主義勢力に対抗した。

孫文のあとをついだ 国民党の蒋介石は、1926年から1928年に北伐(北方軍閥を倒すための闘い)を行い、1927年4月、南京に国民政府を樹立した。

二十一か条の要求

日本政府は政情の不安定な中国の袁世凱政府に対して、1915年1月、二十一か条の要求をつきつけた。

二十一か条の要求のなかで、日本は中国に対して、➊山東省にあるドイツの権益を受けつぐこと、➋旅順・大連の租借期限や南満州鉄道の利権の期限延長、➌南満州や内モンゴルでの日本の利権の拡大、➍日本人を政治・財政・軍事顧問として中国政府に採用することなどを要求した。

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三・一独立運動

日本からの独立を求めていた朝鮮では、1919年3月1日、京城(現在のソウル)で日本からの独立を求める宣言が発表され、人々は「独立万歳」をさけんでデモ行進をした。この動きは、朝鮮全土に広がった。

日本は警察や軍隊を動員して、これを鎮圧したが、政策転換をせまられ、憲兵(軍事警察官)が主体だった警察制度を改め、朝鮮語の新聞・雑誌の発行を許可するなど、武力による支配をゆるめた。しかし、その後も朝鮮の近代化を求める動きは活発になり、独立運動も国の内外で続けられた。

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インドの民族運動

戦争に協力すれば自治と認めるという約束をイギリスを守らなかったため、独立をめざす運動が高まりました。。ガンディーが、非暴力、不服従を唱え、独立運動を指導。完全な自治を求めました。

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