【中学歴史】江戸時代の飢饉についてまとめています。
江戸時代の三大飢饉
- 享保のききん…1732年、長雨とイナゴの害がおもな原因で、西日本一帯でおこった。
- 天明のききん…1782年から1787年にかけて、洪水・浅間山の噴火・東北地方の冷害などが原因で連続的に発生した。
- 天保のききん…1833年ごろから1837年にかけて、冷害・洪水・暴風雨などが原因で全国的に おこった。
天保の飢饉
1830年代には、東北・北陸・関東地方を中心に冷害・洪水・暴風雨などが原因で、全国で大ききんが続いた。
1836年の収穫高は平年の40%という不作で、各地でうえ死にする者が続出した。これを天保のききんという。この天保のききんは、慢性的な様相を示し、米価をはじめとする諸物価が上昇したため、人々の生活は苦しく、百姓一揆や打ちこわしが続発した。
- 江戸では、幕府が「お救い小屋」を設けて苦しむ人々に手 をさしのべたため、どうにか、打ちこわしなどを防げた。
- 大阪では、ききんの影響が大きく、うえ死にする者があいついだ。しかし、大阪の大商人は米を買い占め、大阪町奉行所は救済策をとることもせずに、幕府の指示で米を江戸に送っていた。
大塩の乱
もと大阪町奉行所の役人で陽明学者の大塩平八郎は、町奉行所に貧民の救済を求めたが、相手にされなかった。
そこで大塩は、蔵書を売ったお金を分けあたえて貧しい人々によびかけ、1837年2月、貧民救済と幕府の政策の転換を求めて門弟とともに乱をおこし、大商人らをおそった。
大塩の乱はわずか半日で鎮圧されたが、直轄都市の大阪で、しかも、幕府の元役人がおこしたということで、幕府はこの事件に大きな衝撃を受けた。その後、大塩の乱は各地の人々にも大きな影響をあたえた。
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