【中学歴史】不平等条約改正までの流れ・達成についてまとめています。
不平等条約改正
明治政府が改正をめざした不平等条約とは、1858年に江戸幕府が諸外国と結んだ日米修好通商条約で、日本が相手国に領事裁判権を認め、日本には関税自主権がないという、不平等な内容だった。1871年、岩倉使節団を欧米に派遣して条約改正の予備交渉を行ったが、相手国の同意は得られなかった。
鹿鳴館での舞踏会
外務卿(のちの外務大臣)の井上馨は、日本が欧米同様の文明国であることを示し、改正交渉を有利に進めようとして、鹿鳴館で舞踏会を開くなど極端な欧化政策を行ったが、国民の強い反発を受けて失敗した。
井上馨・大隈重信の両外務大臣は外国人裁判官を日本の裁判に参加させる案を立てたが、これも国民や政府内の反対で失敗した。1886年にノルマントン号事件がおこると、これをきっかけに国民の間で、領事裁判権の撤廃を求める声が高まった。
日米修好通商条約
大老の井伊直弼が反対派を押さえて、朝廷の許可を得ないで結びました。函館、神奈川県(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)の5港を開き、自由な貿易を認める。
ノルマントン号事件
1886年、イギリス船ノルマントン号が紀州(和歌山県)沖で沈没し、イギリス人船員は全員ボートで脱出したが、日本人乗客は全員死亡という事件がおこった。
これを裁いたイギリス領事は、はじめ過失責任なしとして船長を無罪にしたため、国民の間に領事裁判権の撤廃を求める声が高まった。船長はのちに、禁固3か月という軽い刑を言いわたされた。
<その他の外国との事件>
- ラクスマン来航(1792)年…ロシア使節ラクスマンが根室に来航し通商を要求。幕府は拒否。
- レザノフ来航(1804)年…ロシア使節レザノフが長崎に来航し通商を要求。幕府は拒否。
- フェートン号事件(1808)年…イギリスのフェートン号が長崎に侵入し、オランダ商館から食料などを奪う事件
- モリソン号事件(1837)年…日本人漂流者を乗せたアメリカ商船モリソン号が浦賀に来航した。非武装だったが、幕府は異国船打払令により砲撃。山川でも砲撃。
条約改正の達成
イギリスは、日本が大日本帝国憲法を発布し、帝国議会を開き、東アジアで国力を増してくると、日本の国際的な地位を重要視するようになってきた。
ロシアの南下にそなえて、日本と接近をはかる必要を感じていた。その結果、日清戦争直前の1894年、外務大臣陸奥宗光がイギリスと日英通商航海条約を結んで、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部の回復に成功した。
日露戦争後の1911年には、外務大臣小村寿太郎がアメリカ合衆国と日米通商航海条約を結び、関税自主権を回復した。政府は、通商条約を結んでいた他の国々とも同様の条約を結び、不平等条約の改正を完全に達成した。
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