中学歴史「護憲運動」まとめ

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中学歴史「護憲運動」についてまとめています。

第一次護憲運動

1912(大正元)年、西園寺公望内閣は、軍部の反対で辞職した。そのあと組閣した桂太郎は、陸軍出身で長州 (山口県)閥であったため、翌年にかけて、尾崎行雄(立憲政友会)や犬養毅(立憲国民党)らを中心に、「閥族打破・憲政擁護」をかかげた第一次護憲運動がおこった。運動は国民の支持をうけ、稚内閣は倒れた(大正政変)。

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政党内閣の成立

1918(大正7)年、米騒動で寺内正毅内閣が総辞職したあと山県有朋らの元老も政党内閣を認め、立憲政友会の原敬を首班とする内閣が登場した。原敬内閣は、陸軍・海軍・外務の3大臣を除いて、立憲政友会のメンバーで構成され、はじめて本格的な政党内閣が成立した。

  • 米騒動の原因…シベリア出兵を見こした商人たちが、米を買い占めたため、米の値段が急激に上がったから。

第二次護憲運動

原敬内閣・高橋是清内閣の政友会内閣のあと、再び軍人・官僚出身の内閣が続いた。1924(大正13)年、枢密院議長の清浦奎吾が貴族院を中 心とする内閣を組織すると、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党(護憲三派)が、世論の支持をうけて第二次護憲運動をおこした。護憲三派は5月の衆議院選挙で圧勝し、加藤高明(憲政会)を首班とする護憲三派 内閣が成立した。

犬養毅内閣

1932(昭和7)年に犬養毅内閣が、五・一五事件で倒れるまで,議会で多数を 占める政党が内閣を組織する政党内閣が続いた。

  • 五・一五事件…海軍の青年将校の一団が、首相官邸をおそって、「満州国」承認に反対する態度をとったとして、犬養毅首相を殺害した事件

普通選挙法と治安維持法

加藤高明内閣の下で、1925(大正14)年に、満25歳以上の男子に対する普通選挙法が成立した。しかし、婦人参政権は認められず、また同時に治安維持法が制定され、社会主義・共産主義運動に対する弾圧は強まった。

大正時代の復習

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