【中学歴史】徳川家康・江戸幕府の成立についてまとめています。
徳川家康
徳川家康は三河(愛知県)の岡崎の城主の子に生まれた。父が今川氏と織田氏との間にはさまれた小大名だったので、両氏のもとで13年間も人質としてあずけられ小さいときから苦労した。
家康・信長・秀吉の性格
比較してつくられた次のうた(狂歌)から知られる。
- 家康…「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」→がまん強い性格
- 信長…「鳴かぬなら殺してしま えほととぎす」→短気な性格
- 秀吉…「鳴かぬなら鳴かしてみ せよう ほととぎす」→自信の強い性格
関ヶ原の戦い
豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康の勢いが強まった。1600年に、徳川家康は石田三成らの豊臣方の軍を関ヶ原(岐阜県)でやぶって、全国の大名をし たがえた。天下分け目の戦い関ヶ原の戦いには、全国のほとんどの大名が徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)に分かれて戦った。
江戸幕府の始まり
1603年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸(今の東京)に幕府を開いた。以後、およそ270 年間を江戸時代という。
豊臣氏の滅亡
徳川家康が江戸に幕府を開いてからも、豊臣氏は大阪城で力をもっていた。そこで、徳川家康は、将軍職を子の秀忠にゆずったあと、大阪冬の陣(1614年)と大阪夏の陣(1615年)で、豊臣秀吉の子の秀頼を攻め、豊臣氏をほろぼした。
江戸幕府の成立
関ヶ原の戦いでは、徳川家康が石田三成らを破ります。徳川家康は、征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開きます。二度にわたる大阪の陣で豊臣氏を滅ぼします。
幕府と藩が全国を支配していきます。幕府は、幕府の直接の支配地(幕領)と家臣の領地を合わせて、全国の約4分の1を支配します。京都、大阪、奈良、長崎などの重要な都市やおもな鉱山を直接に支配し、貨幣の鋳造権を独占します。五街道を整備し、街道には宿場、要地には関所を設置しました。
大名の種類
将軍から1万石以上の領地を与えられ、それぞれの藩を支配します。
- 親藩…要地と周辺には将軍家の親戚(尾張、紀伊、水戸は「御三家」)
- 譜代大名…関ヶ原の戦い以前から徳川氏に従えていた。
- 外様大名…遠方には関ヶ原の戦い以後に徳川氏に従えた。
大名や朝廷の統制
- 武家諸法度…大名を統制するための法令
- 参勤交代…大名は妻子を江戸に置き、1年おきに領地と江戸を往復する。3代将軍徳川家光が制度化。
- 京都所司代…朝廷を監視。
- 禁中並公家諸法度…天王や公家の行動を制限。
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