【中学歴史】イギリスのインド支配・インドの大反乱についてまとめています。
イギリスのインド支配
アジアへの侵略を進めるイギリスは、1600年に、アジアとヨーロッパの貿易や、アジアでの植民地経営を進めるために東インド会社を設立し、マドラス・ボンベイ(現在のムンバイ)・カルカッタを拠点にムガル帝国に進出した。
1757年にイギリスは、フランスとベンガルの地方政権の連合軍をブラッシーの戦いで破り、フランスをインドから退け、ベンガル地方の支配権を確立した。さらに、内乱によるムガル帝国のおとろえに乗じて、インドの支配を進めていった。
イギリスは19世紀になって産業革命を達成してからは、インド産の綿花を原料として機械生産した綿製品を大量にインドに輸出したため、インドの手工業による綿工業はおとろえ、大打撃を受けた。その結果インド人の生活は非常に苦しくなり、イギリスの植民地支配に対して、ますます反感が高まっていった。
インドの大反乱
1857年、東インド会社にやとわれていたインド人兵士が、ムガル皇帝をおし立ててイギリスに対して反乱をおこした。これに農民や手工業者らも加わって、南インドをのぞくインド全域に拡大した。イギリスはこの大反乱を2年がかりで鎮圧すると、1858年にムガル帝国を滅ぼし、同時に東インド会社を解散してインド全土を直接支配した。
1877年に、イギリスのヴィクトリア女王が皇帝を兼ねるインド帝国を成立させ、これによってインドは、イギリスの原料供給地と工業製品の市場としての完全な植民地に変えられてしまった。
三国貿易
イギリスでは紅茶を飲む習慣が広まり、清(中国)から茶を大量に輸入していたが、清は18世紀半ばから、欧米諸国との貿易を広州1港に限るなどの制限をした。このため、イギリスの対清貿易は綿布などの輸出がのびず、大幅な赤字となり、代金の銀が清に大量に流れていった。
そこで、イギリスは銀の流出を防ぐために、本国で生産した綿織物を大量にインドへ輸出し、インドの農民に麻薬をつくらせて、ひそかに清に輸出させた。この結果、清の銀はインドを経由してイギリスにもどることになったが、逆に清は銀の流出で財政難となり、アヘンの中毒が人々に広がったため、アヘンの密輸を禁止した。
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