【中学歴史】寛政の改革

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【中学歴史】寛政の改革についてまとめています。

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寛政の改革

1787年、11代将軍徳川家斉のもとで新たに老中となった松平定信(徳川吉宗の孫)は、田沼時代の政治を改めるため、徳川吉宗の政治を理想として寛政の改革を始めました。

  • 寛政異学の禁…松平定信は封建支配を強化するために、文武(学問と武芸)をすすめ、幕府の昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁止し 、役人の登用試験も朱子学に限りました。
  • 棄捐令…生活に苦しむ旗本・御家人に対しては、質素・倹約を命じる一方で、旗本・御家人が商人(札差)からした借金を帳消しにする法令を出しました。
  • 旧里帰農令…天明のききん(1782~1787年)で荒れはてた農村を復興するために、江戸に出かせぎに来た百姓を帰村させた。
  • 囲米の制…商品作物の栽培を制限して米などの穀物生産をすすめ、ききん対策として農村に米穀を貯蔵させた。
寛政の改革は、初めは人々に受け入れられたが、改革の内容がきびしすぎて反感をかうようになり、松平定信と11代将軍徳川家斉の対立もおこり、約6年で終わりました。

ラクスマンの来航

1792年には、根室(北海道)にロシアの使節ラクスマンが来航して通商を求めたましたが、松平定信は通商を拒否するとともに、諸藩にも海岸の防備を強化するように命じました。

そのころ蝦夷地は、松前藩がアイヌの人々に対する支配を強めていましたたが、幕府は海防の必要から、18世紀末には蝦夷地調査のため、最上徳内らを派遣しました。

棄捐令の影響

棄捐令が出されて借金の帳消しされると、小躍りして喜ぶ者もいました。しかし、帳消しの総額はとどけ出があっただけで、約120万両にものぼり、札差に大打撃をあたえました。そのため、その後、旗本や御家人への金融はとどこおりました。

財政難に苦しむ諸藩

  • 藩札の発行。家臣の俸禄(ほうろく)を減らす。
  • 諸藩の改革…米沢藩(山形県)、熊本県は、特産物の生産を奨励し、専売制で財政の立て直しに成功。

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