中学歴史豊臣秀吉の政策についてまとめています。
豊臣秀吉の政策
豊臣秀吉は、検地・刀狩を行い、兵農分離(武士と農民の身分の区別を明確化し近世社会の基礎を作りました。
検地
田の広さや土地のよしあし、予想される生産量を調べることを検地といいます。豊臣秀吉は全国で検地を実施し、検地帳に記録させました。秀吉が行った検地を特に太閤検地といいます。
- ものさしやますの統一…土地の面積、生産量をはかる統一的な基準を定めました。全国で検地をするためには欠かせませんでした。
- 検地帳…検地帳には①田畑の面積②土地のよしあし(予想される生産量を石高であらわす) ③耕作し、所有する農民の名前(年貢を負担する者)が記入されています。
太閤検地の意義
太閤検地には次のような意義があります。
- 統一的な基準…全国の土地が統一的な基準(石高)であらわされるようになりました。
- 石高制…武士の知行(領地から年貢を取る権利)は石高で示されるようになりました。→大名や家臣の領地の規模が明らかとなり、石高に応じて軍役を負担する制度が整えられました。
- 荘園制度の否定…荘園領主や有力農民が持っていた土地の権利が否定され、荘園制度は完全にくずれました。土地の所有権と年貢の義務:耕作する農民に土地の所有権を認める一方、年貢をおさめる義務を負わせました。
刀狩
1588年、秀吉は刀狩令を出し、農民や寺社から刀、弓、鉄砲などの武器を取り上げました。
- 農民の武力による一揆を防ぐ。
- 農民をもっぱら耕作に従事させる。
兵農分離
検地と刀狩によって、武士と農民の身分の区別を明確にする兵農分離が進められました。兵農分離は江戸幕府に引きつがれ、近世の日本社会の基本を形づくりました。
- 武士…領地をはなれ、城下町に集められました。
- 農民…農村に住むこととされて、土地を捨てて武家に奉公したり、町人になったりすることを禁じられました。
- 商人・職人…城下町や港町に集められました。
海外貿易
豊臣秀吉は海外との貿易に積極的な姿勢を示しました。
- 渡航の奨励…京都,長崎,堺などの商人の海外渡航を奨励し、海賊を取りしまって貿易船の安全を図りました。
- 対外政策…朝鮮,高山国(台湾),ルソン(フィリピン)などに服属を求めました。
朝鮮侵略
豊臣秀吉は海外貿易を奨励し、朝鮮侵略とかじを取ります。その朝鮮侵略は朝鮮民衆の抵抗と明の救援があり失敗に終わります。1592年(文禄の役)と1597年(慶長の役)の二度にわたって、豊臣秀吉は朝鮮の侵略を命じました。
- 目的…明の征服を計画した豊臣秀吉は、朝鮮に協力を要請しましたが断られたため、朝鮮侵略を開始しました。
- 過程…豊臣秀吉の命令を受けた大名は釜山に上陸したのち、首都漢城(現ソウル)を占領し、一部は平壌に進みました。
- 抵抗運動…朝鮮民衆の義兵による抵抗運動、李舜臣(1545~98)が率いる水軍の活躍。明の援軍などによって、日本の軍勢は苦戦しました。
- 講和交渉…豊臣秀吉は、休戦して講和交渉を始めましたが、明を中心とする朝貢体制のもとでの講和に不満を持ち、交渉は失敗しました。
- 終結…豊臣秀吉はふたたび出兵を命じましたが、豊臣秀吉が病死したため、兵は引きあげられました。
朝鮮侵略の影響
- 朝鮮…多くの人が殺されたり、日本に連行されたりしました。
- 明…朝鮮への援軍のために、国力がおとろえました。
- 日本…武士や農民は重い負担に苦しみ、大名間の不和が表面化して、豊臣秀吉氏没落の原因となりました。
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