中学歴史「国一揆と一向一揆」

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中学歴史「国一揆と一向一揆」についてまとめています。

国一揆

下剋上の風潮のなかで、近畿地方では国人や地侍の勢力が強まり、彼らは農民らと結んで守護大名に立ち向かうようになった。一国の規模で、国人を中心に農民も加わっておこす一揆を国一揆という。

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山城の国一揆

国一揆の代表的なものが、1485年におこった山城の国一揆である。応仁の乱のあとも、山城(京都府)では畠山氏が2派に分かれて争い続けた。そのため、戦場になった南山城では国人が一揆を結び農民とともにたちあがった。一揆は成功して両軍ともに撤退し、その後は守護の支配を認めず8年間自治を行った。南山城では「月行事」とよばれた人々が交替で自治を行った。

  • 応仁の乱…1467年に11年にあたる戦乱が始まります。東軍(細川方)、西軍(山名方)に分かれて、京都から全国に広がりました。

一向一揆

浄土真宗(一向宗)が急速に勢力を広げ、とくに近畿・東海・北陸地方で力を強めた。一向宗の門徒がつくる寺内町もあらわれた。一向宗の人々が結束して守護大名に対抗し、また、戦国大名にも抵抗した一揆を一向一揆という。

加賀の一向一揆

一向宗を信仰する者(門徒)のなかには、国人も多く含まれていた。国人や農民の組 織が強力になると、守護にかわって門徒が国を支配しようとする動きが出てきた。1488年、加賀(石川県)では、一揆軍が守護の富樫氏をほろぼし、その後100年間 にわたって自治が行われた。それは、一向宗の僧侶・国人・農民の合議による支配で、一向宗の中心である本願寺の領国のようであった。

一揆 まとめ

  • 一揆…本来, 道を同じくするという意味で、やがて一致団結するという意味になった。武力で抵抗するものだけを一揆というのではない。
  • 山城国一揆…山城(京都市)南部で、武士と農民が守護大名を追い払う。
  • 一向一揆…浄土真宗(一向宗)の信仰で結びついた武士や農民が各地で一揆をおこしました。加賀(石川県)では、守護大名をたおし、約100年間自治を行いました。
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