【中学歴史】桃山文化・南蛮文化についてまとめています。
桃山文化の概要
織田信長・豊臣秀吉が政権をにぎった約30年間を、信長の安土城や秀吉晩年の伏見城(城跡がのちに桃山とよばれる)にちなんで安土桃山時代とよんでいます。そして、この時期に栄えた文化を桃山文化といいます。桃山文化は、新興の大名や海外貿易などで活躍する大商人らの気風を反映して、豪華で壮大な活気に満ちた文化です。また、仏教の影響がうすれ、南蛮文化の影響を強く受けるようになり、庶民の間にも広まっていることも特徴です。
- 城…安土城、大阪城、姫路城など壮大な天守閣を持ちました。
- 絵画…狩野永徳の唐獅子図屏風など
- 茶の湯…堺の商人千利休が質素なわび茶を大成させます。
- 民衆の文化…浄瑠璃が琉球(沖縄県)から伝わった三線をもとにつくられた三味線に合わせて語られました。出雲の阿国が始めたかぶき踊りも流行しました。
- 衣服…小袖(こそで)が一般的になりました。庶民の衣服は、麻から木綿に。
桃山時代の建築・絵画
壮大な城や書院造の部宅の内部には、障壁画がえがかれました。建築や絵画には、桃山文化の特色がよく表れています。
- 天守閣…安土城・大阪城・姫路城など、そびえ立つ天守閣や石垣が築かれ、堀に囲まれた壮大な城は、領内の政治の中心となり、支配者の権威を示しました。
- 書院造…城内の御殿、公家や上級武士・大商人の邸宅などには書院造が取り入れられた。書院造を取り入れた城郭風邸宅として、豊臣秀吉が京都に造営した 聚楽第(じゃらくてい)が知られています。
- 障壁画…城や邸宅内部のふすまや屏風には、狩野永徳・山楽らの狩野派や長谷川等伯らの豪華な障壁画がえがかれました。
- 南蛮屏風…風俗をえがいた風俗画や、南査人の風俗や生活様式を題材にした南蛮屏風が流行しました。
桃山時代の茶道・芸能
室町時代に始まった茶の湯は、人名や大商人の間で流行していましたが、藩(大阪府)の商人の千利休が茶道(わび茶)として大成しました。
芸能では、出雲(島根県)の国が始めた歌舞後おとり(阿国歌舞伎)が流行し、歌舞伎のもとになりました。また、小歌(気軽に歌える歌詞)が流行ししました。さらに、琉球 (沖縄県)から伝わった一線を改良して三味線がつくられ、それに合わせて人形浄瑠璃が語られるようになりました。
南蛮文化
ヨーロッパの文化から影響を受けて成立した芸術や流行の風俗。
- 天文や医学、航海術など、新しい学問や技術が伝わりました。
- 狩野派の画家が、南蛮船入港の様子をえがく、ヨーロッパ風の絵画、宗教画。
- 活版印刷術が伝えられ、聖書、平家物語などの書物がローマ字で印刷されました。
- 衣服は、金のくさりやボタン、ヒダのあるえりがついたヨーロッパ風の衣服。十字架をかたどった首飾り。
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