【中学歴史】長崎貿易・異国船打払令についてまとめています。
長崎貿易
東南アジアと直接交易することができなくなったので、それにかわるルートが求められました。そこで、中国・オランダとは、長崎(出島)で交易をしました。風説書を義務付けし、海外事情を知りましたが、それは幕府が情報独占。
- 輸入品…中国産の生糸・絹織物、東南アジアの品物など。
- 輸出品…金・銀・銅など。
国内の産出量が減ったこと、大量流出で国内の経済が混乱することを理由に、金・銀の輸出は17世紀後半以降制限されました。また、俵物(干しあわび、ふかのひれなどの海産物)に変わりました。
海外の情報の入手
幕府は、長崎に入港する貿易船に風説書の提出を命じました。
- 風説書…貿易船に提出が義務づけられた海外事情のレポートです。 オランダ風説書(オランダ船が提出)や唐船風説書(中国船が提出)は、海外の事情を知る貴重な手段でした。→幕府が情報を独占
- 書物の輸入禁止…キリスト教、ヨーロッパの科学に関係する書籍の輸入は禁止されました(科学関係の書籍については、のちに輸入が許されます)。
出島
出島にはオランダ商館の商館長や館員の住居、貿易品の倉庫などが建っていて、牛や豚の飼育場もありました。住んでいるのは商館長以下オランダ商館の関係者のみで、日本人の出入りは厳しく制 限され、オランダ人が長崎市内に出かけることもできませんでした。
異国船打払令
19世紀、外国船が日本に接近します。その対応として、日本は異国船打払令を出します。
外国船の接近
18世紀後半からロシア船が、19世紀になるとイギリスやアメリカの船が、日本に近づくようになりました。
- ロシア…漂流民を送り返す名目で来航し、通商を求めました。
- フェートン号事件…1808年、イギリス軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に侵入し、オランダ商館員をとらえる事件が起きました。異国船打払令を出すきっかけとなりました。
- 異国船打払令…1825年、幕府は沿岸に近づく外国船を直ちに撃退 することを命じた異国船打払令を出しました。
- モリソン号事件…1837年、漂流民を送り届けようと浦賀に来航したアメリカ商船モリソン号を砲撃する事件が起きました。
蛮社の獄
渡辺華山(1793~1841)や高野長英(1804~50)などの蘭学者が外国船を打ち払った幕府を批判する書物を書き、処罰されました。
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