【中学歴史】応仁の乱・一揆

【中学歴史】応仁の乱・一揆についてまとめています。

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応仁の乱

応仁の乱のころから、下の身分の者が実力で、上の身分の者を倒す用上の風潮(下剋上)が広がった。実力のある守護大名の家臣や国人(在地の有力武士)などが守護大名を倒し、勢力の強い守護大名は領国の支配を固めるなどして、戦国大名に成長していった。

第6将軍足利義教(よしのり)の暗殺によって、守護大名間の勢力争いがおこります。第8代足利義政のとき、あとつぎ問題で、細川氏と山名氏が対立しました。

応仁の乱は、1467年に11年にあたる戦乱が始まります。東軍(細川方)、西軍(山名方)に分かれて、京都から全国に広がりました。

国一揆

下剋上の風潮のなかで、近畿地方では国人や地侍の勢力が強まり、彼らは農民らと結んで守護大名に立ち向かうようになった。一国の規模で、国人を中心に農民も加わっておこす一揆を国一揆という。

  • 山城国一揆…山城(京都市)南部で、武士と農民が守護大名を追い払う。
  • 一向一揆…浄土真宗(一向宗)の信仰で結びついた武士や農民が各地で一揆をおこしました。加賀(石川県)では、守護大名をたおし、約100年間自治を行いました。

一向一揆

浄土真宗(一向宗)が急速に勢力を広げ、とくに近畿・東海・北陸地方で力を強めた。一向宗の門徒がつくる寺内町もあらわれた。一向宗の人々が結束して守護大名に対抗し、また、戦国大名にも抵抗した一揆を一向一揆という。

加賀の一向一揆
一向宗を信仰する者(門徒)のなかには、国人も多く含まれていた。国人や農民の組織が強力になると、守護にかわって門徒が国を支配しようとする動きが出てきた。1488年、加賀(石川県)では、一揆軍が守護の富樫氏をほろぼし、その後100年間にわたって自治が行われた。それは、一向宗の僧侶・国人・農民の合議による支配で、一向宗の中心である本願寺の領国のようであった。

戦国大名の誕生

将軍は、京都を中心とするわずかな地方のみを支配。

  • 下剋上…実力あるものが、力のばして上の身分の者に打ち勝って、下剋上の風潮が広がりました。
  • 戦国大名…守護大名の地位をうばって実権をにぎった者、守護大名が成長した者が各地に登場。

応仁の乱以降を、戦国時代といいます。

分国法

戦国大名は、領国内の国人を従え、地侍などを家臣に取り立て、かれらの地位や収入を保障し、勢力を広げていった。また、家臣団と農民を統制して領国の支配を固めるために分国法(家法)を制定した。この分国法は、家臣団の統制や農民の生活にかかわる規定、訴訟にかかわる規定などを主要な内容としていて、領国内の平和を保つために、違反者はきびしく罰せられた。

戦国大名の商業

さらに戦国大名は富国強兵策をとり、検地(田畑の調査) を行い、用水路や堤防を築いて農業をさかんにし、鉱山の開発にも努めた。城を中心につくった城下町には、家臣や商工業者を集め、商工業を保護した。

城下町

戦国大名が領国(りょうごく)につくったのが、城下町です。

  • 城…山に築いていた城を、交通の便のよい平地に築きました。城の周辺に家来を集め、商工業者を呼び寄せ、城下町をつくりました。
  • 分国法…鎖国を統一して支配するため、独自の法を定めました。

用水路の建設、鉱山の開発。交通路の整備、座の廃止。

自治都市

都市が発達して自治組織がつくられます。日明貿易や日朝貿易で栄えた博多(福岡県)や堺(大阪府)、応仁の乱から復興した京都などの都市では、寄合による都市の政治が行われます。

  • 京都…自治をになう町衆と呼ばれる裕福な商工業者によって、祇園祭が行われました。

石見銀山(島根県)では、戦国大名の保護のもと博多の商人が開発。精錬(せいれん)技術の改良で生産量が増加し、海外に輸出しました。精錬(せいれん)技術は佐渡便残(新潟県)などにも、もたらしました。

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