中学歴史「江戸時代の政治改革まとめ」

シェアする

スポンサーリンク

中学歴史「江戸時代の政治改革」についてまとめています。江戸時代の政治改革に関して、外国との関係、化政文化、貨幣経済などにもふれています。それでは、中学歴史「江戸時代の政治改革」です。

享保の改革

享保の改革は、第8代将軍徳川吉宗が行った政治改革で、幕府の財政は一時的に立ち直ります。

  • 幕府は、財政難に苦します。そのため、武士に質素・倹約を命じます。
  • 参勤交代で江戸にいる機関を短縮。
  • 上米の制…米の献上
  • 人材を登用し、新田開発を進める。米の値段の安定に努めました。
  • 裁判の基準となる公事方御定書を定める。
  • 庶民の意見を聞く目安箱を設置する。
スポンサーリンク

定免法

財政の立て直しのために、町人に出資させて新田開発をすすめたり、年貢の率を引き上げて、豊作・凶作に関係なく一定の年貢を取り立てるようにしました。

上米の制

上米の制を定めて、大名に1万石につき100石(重さで約15t)の米を納めさせる代わりに、藩の財政を圧迫していた参勤交代制をゆるめ、江戸にいる期間を半年に短縮しました。さらに、ききん対策として、青木昆陽にサツマイモの栽培法を研究させ、人々にすすめました。

結果
享保の改革の結果、幕府の財政はいったん立ち直りましたが、年貢の増加や享保のききん(1732年)による米価の上昇などで、人々の生活は苦しくなり、百姓一揆・ 打ちこわしが続発するようになり終焉。

目安箱

目安箱への投書によって、江戸小石川(現在の東京都文京区) の薬園内に養生所が設けられて、貧民の施薬や治療に役立ちました。また町火消「いろは47組」が組織され、江戸の町の防火・消火体制が整えられました。

公事方御定書

1742年、徳川吉宗が裁判の基準を定めるために出した法令。 上下2巻で、下巻は「御定書百箇条」とよばれ、判例や取り決めなどをもとに、刑法や訴訟法などについての規定をもりこんだ。

貨幣経済の広がり

  • 長崎の貿易を制限。綿や綿織物の産物の国産化をはかりました。
  • 農民は、農具や肥料を購入し、農村に貨幣経済が広がります。小作人と地主から農民の間に貧富の差が拡大。
  • 問屋制家内工業と工場制手工業(マニュファクチュア)も成立。

百姓一揆と差別の強化

  • 百姓一揆…領主に年貢の軽減や不正を働く代官の交代などを要求。
  • 打ちこわし…都市で米の買い占めをした商人を襲う。
  • えた身分、ひにん身分の人々に対して、日常生活や服装でさらに統制。

田沼の政治

18世紀後半、第10代将軍徳川家治(1737~86)のもとで老中となった田沼意次(1719~88) は、発展した商工業に注目し、大商人の力を利用して幕府の財政を立て直そうとしました。

  • 商工業の重視…株仲間を奨励し、商工業者に特権をあたえるかわりに税を取りました。
  • 貿易の振興…長崎貿易を活発にしようとしました。銅を専売制にして、主な輸出品にしようとしました。海産物(ほしあわび, ふかのひれなど)の輸出を奨励しました。
  • 蝦夷地…蝦夷地を調査し、開発をこころみました。
  • 開拓事業…町人に出資させて印旛沼(千葉県)を干拓し、新田を増やそうとしました。印旛沼の干拓では、幕府は3回にわたって印旛沼の干拓をこころみましたが、いずれも失敗に終わりました。田沼の干拓事業は2回目にあたります。

田沼の失脚

政治の乱れや社会不安の責任を問われました。

  • 政治の乱れ…商工業が活発になった反面、地位や利権を求めてわいろが横行しました。
  • 社会不安…天明のききんによって米価が高騰し、各地で百姓一揆、打ちこわしが起きました。
  • 天明のききん(1782~87)…1782年以後、毎年のように洪水、天候不順がくり返され、浅間山の噴火も加わって大凶作となりました。特に東北地方の被害が大きく、津軽藩(青森県)では20万人が戦死したと伝えられています。
  • 浅間山の噴火…1783年に大噴火し、1000名余りの死者が出ました。大量の火山灰が噴出した影響で天候が不順となり、諸国のききんをひき起こした原因の一つとなりました。

寛政の改革

1787年、11代将軍徳川家斉のもとで新たに老中となった松平定信(徳川吉宗の孫)は、田沼時代の政治を改めるため、徳川吉宗の政治を理想として寛政の改革を始めました。

松平定信は封建支配を強化するために、文武(学問と武芸)をすすめ、幕府の昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁止し (寛政異学の禁)、役人の登用試験も朱子学に限りました。生活に苦しむ旗本・御家人に対しては、質素・倹約を命じる一方で、旗本・御家人が商人(札差)からした借金を帳消しにする法令(棄捐令)を出しました。

天明のききんへの対応

天明のききん(1782~87年)で荒れはてた農村を復興するために、江戸に出かせぎに来た百姓を帰村させ、商品作物の栽培を制限して米などの穀物生産をすすめ、ききん対策として農村に米穀を貯蔵させた(囲米の制)。

1792年には、根室(北海道)にロシアの使節ラクスマンが来航して通商を求めたましたが、松平定信は通商を拒否するとともに、諸藩にも海岸の防備を強化するように命じました。

そのころ蝦夷地は、松前藩がアイヌの人々に対する支配を強めていましたたが、幕府は海防の必要から、18世紀末には蝦夷地調査のため、最上徳内らを派遣しました。

寛政の改革は、初めは人々に受け入れられたが、改革の内容がきびしすぎて反感をかうようになり、松平定信と11代将軍徳川家斉の対立もおこり、約6年で終わりました。

棄捐令

棄捐令が出されて借金の帳消しされると、小躍りして喜ぶ者もいました。しかし、帳消しの総額はとどけ出があっただけで、約120万両にものぼり、札差に大打撃をあたえました。そのため、その後、旗本や御家人への金融はとどこおりました。

財政難に苦しむ諸藩

  • 藩札の発行。家臣の俸禄(ほうろく)を減らす。
  • 諸藩の改革…米沢藩(山形県)、熊本県は、特産物の生産を奨励し、専売制で財政の立て直しに成功。

天保の改革

老中水野忠邦(1794~185)が、幕府の力を回復させるために、幕府政治の改革を進めました。

  • 倹約令…ぜいたく品や派手な風俗を取りしまり,政治批判や風紀を乱す小説の出版を禁止しました。
  • 株仲間の解散…水の忠邦は、株仲間が営業を独占しているから物価が上昇するのだと考え、解散を命じました。
  • 農民の帰村…江戸への出かせぎを禁止し、江戸にいる農民を帰村させました。
  • 外国船対策の転換…アヘン戦争の結果を知った忠邦は異国船打払令を撤回し、寄港した外国船にはまきや水をあたえるよう命じました(新水給与令)。
  • 印旛沼(千葉県)の干拓…干拓を再開し、銚子から江戸までの水路を開こうとしました。しかし、水野忠邦の失脚で工事は中止されました。

株仲間

承認や手工業者は、株仲間をという同業組織をつくり、幕府や藩に冥加金・運上金などの営業税を納めさせて保護を受けました。イ価格や供給量を統制して独占的な利益を得ました。具体的には、田沼意次による財政の立て直しのため、株仲間の奨励し、特権を与え、営業税を徴収した。天保の改革(老中水野忠邦)では、物価の引き下げのために株仲間を解散させます。江戸に出稼ぎに来ている農民を故郷の村に返しました。
確認中学歴史「座と株仲間の違い」

アヘン戦争

清の役人が密輸厳禁策を強行して、イギリス商人のアヘンを没収して焼き捨てたため、イギリスは自国の貿易や商人の保護を口実にして、1840年、清に戦争をしかけた。これをアヘン戦争という。約2年間の戦争で,近代的な兵器をもつイギリスは、強力な艦隊を送って広州や上海を占領し、南京にせまって清を降伏させた。
確認中学歴史「アヘン戦争」とその前後

改革の失敗

江戸・大阪周辺を幕領にしようとした政策が、大名・旗本の反対で実施できなかったことで、水野忠邦は失脚しました。

  • 幕府財政を安定させ、江戸の防備を固める目的で、江戸・大阪の周辺を幕領にしようとしました(上知令)。
  • 対象となった地域に領地を持つ大名や旗本の反対で、政策を実行で きませんでした。
スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

スポンサーリンク
トップへ戻る