中学歴史「イギリスの市民革命(清教徒・名誉革命)」

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中学歴史「イギリスの近代市民革命」についてまとめています。市民革命は、市民階級が絶対王政を倒した革命を市民革命といいますが、今回は、イギリスについて掘り下げていきます。それでは、中学歴史「イギリスの近代市民革命」です。

市民革命

市民階級が絶対王政を倒した革命を、市民革命いいます。 絶対王政のもとでは、国王は大商人と結んで産業を統制し、議会を無視して重税をかけ、信仰の自由も認めていませんした。そこで、豊かな農民や工場経営者らは、都市の新興の 商工業者と結んで、議会で力をのばして対抗していきました。

市民階級が、身分制にもとづく社会を改め、自由と平等を求めて絶対王政を倒した革命を市民革命とよんでいます。

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清教徒革命

1649年、議会側はクロムウェルの指導で絶対王政を倒した。 17世紀前半のイギリスでは、国王がピューリタン(清教徒)を圧迫して専制政治を行っていた。議会は市民の権利を守るために「権利の請願」を国王に認めさせていました。しかし、その後、国王はこれを無視しました。以後、国王と議会の対立がはげしくなり、1642年、内乱が始まりました。

議会側はクロムウェルを 指導者として農民や市民を中心に戦い、国王の軍隊を破った。1649年、議会側は国王を処刑して絶対王政を倒し、共和政を始めました。これをピューリタン(清教徒)革命といいます。 クロムウェルは、内政ではきびしい独裁政治を行ったため、国民の不満が高まり、死後の1660年に王政が復活します。

ピューリタン(清教徒)

イギリスでのプロテスタント (新教徒)の一派で、カルヴァン派の教えを信じる人々を、清教徒といい、イギリス国教会に反対した新興の市民階級に信者が多かくいました。仲には、信仰の自 由を求めて北アメリカ植民地に移住する者もいました。

権利の請願

1628年の「権利の請願」では国王(チャールズ1世)に対して、 課税には議会の同意が必要であることや、法律によらずに人々を逮捕・投獄しないことなどを認めさせました。

名誉革命

新しく即位した国王は、再び専制政治を始めたため、議 会と国王の対立が続きました。そこで議会は、1688年に国王を追放し、オランダから新国王をむかます。この革命は流血なしで行われたため、名誉革命とよばれました。この国王は議会の立場を重んじ、国民の自由と権利を守るために、議会がつくった「権利の宣言」を認め、1689年に「権利の章典」として発布。

この結果、国民の自由と権利が保障され、議会の地位が確立。18世紀の初めには、議会で多数をしめる政党から首相が出て内閣をつくる責任内閣制が確立し 、「国王は君臨すれども統治せず」といわれました。

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