【中学歴史】奈良時代の要点まとめ

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【中学歴史】奈良時代の要点まとめています。

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奈良時代の要点

律令国家と奈良時代に関して、律令国家の成立から奈良時代の人々のくらし、天平文化などにふれています。

律令国家の成立

701年、唐の法律にならい、全国を支配するしくみを細かく定めた大宝律令が制定されます。

律令国家とは、律令にもとづいて政治を行う国家。「律」は、刑罰のきまりで、「令」は、政治を行ううえでのきまりです。天皇と貴族が中心となって運営しています。

・中央…神祇官と太政官の2官の下に8省。都の警備に五衛府。天皇を中心とする政府を朝廷といいます。
・地方…国・郡に分け、国には国府を置き、都から国司を派遣。国司の下には地方の豪族を郡司に任命しました。現在の福岡県に大宰府、宮城県に多賀城があり、それぞれ九州地方と東北地方の政治や外交・防衛、軍事にあたりました。
・五畿七道…全国を、都周辺の機内と7つの道に分けました。都と地方を結ぶ道路を整備します。駅を設け、乗り継ぎ用の馬を用意しています。

■ 平城京
唐の都長安(西安)にならって、奈良盆地北部につくられました。平城宮を北の中央に置き、碁盤の目のように区画。東西2つの市では、各地の産物などを売買されました。このころ日本で最初の銅銭である富本銭がつくられました。唐にならって、和同開珎などの貨幣も発行しました。

聖武天皇の政治

聖武天皇が在位した720~740年代は凶作が続き、疫病が流行するなど社会不安が広がっていた。

仏教は国家の平安と繁栄をもたらし、人々を幸福にする力をもつとされていた。そこで、聖武天皇は仏教の鎮護国家の思想で国の平安を保とうと、国ごとに国分寺国分尼寺を、都に総国分寺として東大寺を建て、大仏を造立した。国分寺や東大寺大仏の造立などで律令国家の財政が悪化し、たび重なる労役への動員で人々の生活は苦しくなっていった。

■ 仏教保護政策
いっぽう、聖武天皇がおし進めた仏教保護の政策は、道鏡などの僧が政治に進出してくるもとになった。このころ、社会事業につくす人々が現れ、光明皇后が悲田院施薬院を設けて、みなしごや病人を救った。

また、僧の行基は布教のかたわら、諸国をまわって橋や用水路などをつくり、政府の要請で大仏の造立にも積極的に協力した。

■ 和同開珎
708年に和同開珎が鋳造され、長い間、わが国最古の貨幣といわれてきたが、1998年に飛鳥池遺跡(奈良県明日香村)から富本銭が発見され、これが和同開珎よりも古く、7世紀後半に鋳造された最古の貨幣と考えられている。

奈良時代の人々のくらし

律令国家のもとで、人々の身分区切られ、税の負担などが課されました。人々は良民と賎民に分けて戸籍に登録され、6歳以上のすべての人に口分田が与えられました。奈良時代の農民は、口分田からの収穫だけでは生活は苦しかった。

奈良時代の農民の多くは、たて穴住居に住んでいたが、都の周辺では平地式の掘立柱住居に住む者が増えてきた。農民は、国から貸しあたえられた口分田を耕し、稲のほか、畑で青菜やナス・ウリなどを育てていたようだが、生活は苦しかった。

食事は玄米(精白してない米)と青菜の汁・塩がおもな献立で、1日2食が普通だった。しかし、鉄製農具の広がりなどによって、稲の収穫量はしだいに増加してきた。

■ 戸籍・口分田
戸籍は、律令の規定にもとづいて6年ごとにつくられました。戸主と家族の氏名・年齢・身分などが記録され、人々に土地(口分田)を支給するもととなる重要な書類でした。

人々は良民(貴族、税を負担する公民 特別な技能を持った人々など)と農民(奴婢など)に分けられ、戸籍に登録されました。

・貴族…良民のうち、ごく限られた人々が貴族でした。貴族は政府で太政官などの高い地位につきました。高い給与、広い土地をあたえられ、その特権は子孫に引きつがれました。
・賤民…奴婢。政府に使役される人々などがいました。奴婢は牛や馬と同じように売買され、奴婢以外の人との結婚は禁じられ、子どもも奴婢とされました。

農民らの中には重い税や苦しい労役からのがれるために、戸籍の性別や年齢をいつわったり、口分田を捨てて逃亡して貴族や寺社の私有民となったり、かってに僧となって税をまぬがれる者もあった。さらには、本籍地をはなれて浮浪する者が跡を絶たなかった。『万葉集』の中に収められた山上憶良の「貧窮問答歌」からは、このころの貧しい農民の生活 のようすをうかがうことができる。

■ 班田収授法
班田収授法は、人々に土地(口分田)をあたえるかわりに税を負担させるしくみです。

  1. 戸籍に登録された6歳以上のすべての人に、国から口分田があたえられました。
  2. あたえられる口分田の面積は、性別・身分によって異なりました。
  3. 口分田の面積に応じて組が課せられました。
  4. その人が死ねば、国に口分田を返させました。

奈良時代の農民の税

農民は、租・調・庸、雑徭などの税のほか、兵役(皇居を警備する衛士や、大宰府で西国の防備にあたる防人)も課せられたが、それ以外に、調や庸を都に運ぶ義務もあった。調や庸は農民の中から運脚とよばれる人夫が選ばれて運んだが、旅費・食事などは農民の負担だった。

  • …口分田から収穫された稲の3%を国府におさめました。おさめられた稲は国や郡の倉庫におさめられました。
  • 調…絹糸や特産物を中央政府におさめました。一般の成人男子に課せられ、都への運搬も負担させられました。
  • …労役のかわりに布(麻布)を中央政府におさめました。調と同じように一般の成人男子が負担しました。
  • 雑徭…国府のもとで土木工事などの労役に従事しました。1年間に60日以内と期間が定められていました。
  • 兵役…21歳以上の男子は、3~4人に1人の割合で訓練を受けました。一部は、都で1年間や九州の防衛にあたる防人として3年間の軍務につきました。

さらに、国司が国の財源を確保するために、農民に稲を貸しつけて、高い利子を取る出挙があり、豊かな農民も私的に出挙を行ったので、農民の生活はたいへん苦しかった。

荘園の成立

墾田永年私財法(743年)によって、新しく開墾した土地の永久私有が認められるようになった。

そこで、有力な貴族や寺社は国司や郡司の協力を得て、付近の逃亡農民などを使って大規模な開発を行い、私有地を広げていきました。この私有地が、荘園です。10世紀までに衰退してしていきます。

荘園が増加してくると、国が口分田として支給する公有地が不足したため、班田収授法は行えなくなり、公地公民制はもとより律令制度そのものがくずれていきました。朝廷の収入は減りつづけ、統治する力も弱まっていきました。

■ 後期の荘園(寄進地系荘園)
地方豪族は荘園領主に土地を寄進し、保護を受けました。

国司の中には任国に行かずに収入だけを得る者や、任国におもむいても私利をむさぼり、地方政治をかえりみない者も多くいました。開発領主(有力農民)や郡司などの地方豪族は、国司の圧迫からのがれ、開墾して広げた私有地を保護してもらうために、中央の有力な貴族や寺社に土地を寄進しました。こうして成立した荘園を寄進地系荘園といいます。

荘園の寄進を受けた有力な貴族や寺社は、名目上の所有者となり、土地を寄進した豪族は、荘園領主から荘官に任じられて土地の管理や年貢の取り立てにあたり、領主に年貢を納めるとともに、荘園の実権をにぎりました。

荘園で働く農民は「荘民」とよばれ、名主 (私有地をもつ農民)がその中心だったが、有力な名主の中には、荘官となる者もいました。

やがて荘園領主は、朝廷や国司に税を免除してもらう不輸の権国衙(国司が執務する役所)の役人の立ち入りをこばむ不入の権を得ます。不輸・不入の権の拡大によって、 荘園での土地・人民の私的支配が強まり、荘園は朝廷の支配から独立した土地になっていきました。

■ 地頭の荘園侵略
地頭は荘園の侵略を進めていきます。執権政治が確立すると、地頭となった御家人は、鎌倉幕府の権威を背景に、荘園領主にさし出す年貢を横取りしたり、農民に労役を課したりしました。また、荘園内の荘官(管理者)や名主を従えて土地を自分のものにしようとしたため、荘園領主と対立するようになります。

荘園領主は、地頭の荘園侵略をくい止めようとしますが、 やがて困難になり、地頭に荘園の管理権を認めたり(地頭請)。荘園の半分をあたえたりした(下地中分)。こうして、地頭が荘園を獲得していきます。

天平文化

唐の制度や文化を取り入れるためたびたび遣唐使を派遣しました。天平文化は、聖武天皇のことの「天平」年間を中心とする仏教文化です。また、唐、西アジア、インドなどの文化の影響を受けた国際直豊かな文化です。

聖武天皇と光明皇后は、仏教の力にたよって国家を守ろうと、国ごとに国分寺と国分尼寺を建てました。また、都には、東大寺を建て、金銅の大仏をつくらせた。

東大寺の正倉院は、校倉造で、聖武天皇の遺品などをおさめた宝庫で、シルクロードをとって西アジアやインドから伝わった工芸品もおさめられています。

行基…一般の人々の間で不況。橋や用水路をつくりました。
鑑真…日本にわたろうとして何度も遭難し、盲目になって来日した唐の僧。正しい仏教の教えを広めました。また、唐招提寺(とうしょうだいじ)も建てました。

■ 天平文化の歴史書

  • 古事記日本書紀…神話や伝承、記録などをもとにまとめた歴史書。
  • 風土記…地方の国ごとに、自然、産物、伝説などを記した地理書。
  • 万葉集…天皇や貴族、防人や農民などの和歌約4500首をおさめてあります。大伴家持(おおとものやかもち)がまとめたといわれています。

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