中学歴史「飛鳥時代」についてまとめています。聖徳太子の政治と大化の改新に関して、6世紀ごろの内外の動き、飛鳥文化、律令国家などにもふれています。
飛鳥時代の要点
6世紀ごろの内外の動きとして、
- 朝鮮半島…百済や新羅や勢力を強めます。伽耶(かや)地域の国々を併合します。
- 中国…6世紀末に隋が南北朝を統一し、強大な帝国を築きます。
- 国内…地方は、豪族の反乱があり、大和政権内では、蘇我氏と物部氏が争いが続いていました。
聖徳太子の政治
推古天皇の摂政(天皇が女性の場合はその時に天皇の代理として政治を行う)になり、蘇我馬子と協力して大王(天皇)を中心とする政治制度を整えました。
- 冠位十二階の制度…冠の色などで地位を区別します。家柄にとらわれず、才能や功績のある人物を役人に取り立てました。
- 十七条の憲法…役人の心構えを示しました。
- 遣隋使の派遣…隋の制度や文化を取り入るため、小野妹子を派遣しました。留学生も僧も同行しました。
- 仏教を広める…法隆寺など寺院を建てます。
飛鳥文化
飛鳥文化の特色として、飛鳥文化は、天皇や豪族中心の最初の仏教文化。6世紀末から平城京に移るまでの約120年の間、大和の飛鳥地方(奈良盆地南部)には、一時期をのぞいて、歴代の天皇の都がおかれていました。
飛鳥文化は、遣隋使や渡来人などによって伝えられた中国・ギリシャ・ペルシャ・インドなどの文化の影響を強く受けて、国際性のある文化となっています。
聖徳太子や蘇我馬子を中核とする大和政権が、仏教を保護し信仰をすすめたことから、都のおかれた飛鳥地方で、天皇や豪族を中心としたわが国最初の仏教文化である飛鳥文化が栄えました。
飛鳥時代の代表的な建築物
法隆寺に代表される文化です。仏教の広がりとともに、豪族たちは古墳に代わって、氏寺として寺院を建設するようになっていました。
7世紀初めに聖徳太子が建てたといわれる法隆寺は、1度焼けて再建されたもので、飛鳥時代の建 築様式を伝えていて、飛鳥文化を代表するものとなっている。中門や金堂・五重塔は現存する世界最古の木造建築です。このほかに、四天王寺や中宮寺などが知られています。
飛鳥時代の彫刻
法隆寺金堂の本尊釈迦三尊像は、中国の南北朝時代の影響がうかがえ、渡来人の子孫である鞍作鳥(止利仏師)の作といわれています。このほかに、法隆寺の 百済観音像、中宮寺・広隆寺の弥勒菩薩像(半跏思惟像)などがあります。工芸品としては、法隆寺の玉虫厨子や中宮寺 の天寿国繍帳の残片が代表的なもので、西方諸国の文化の影響が見られます。
飛鳥時代の仏教
6世紀の半ばに仏教や経典が百済からおくられ、仏教が伝えられました。祖先の死後の世界の幸福や病気の回復をいのる手段として信じられます。豪族の中には古墳にかわって寺を作ることで権威を示そうとする者が出現しました。
飛鳥時代の道具・技術
鉄製の農具 農業用のため池をつくる技術、かたく黒っぽい色の須恵器を焼く技術、上質の絹織物をつくる技術など。
- 登り窯…須恵器は登り窯と呼ばれる新しい窯で焼かれました。登り窯は窯の中を階段状にして熱を効率よく利用し、高い温度が出せるように工夫された窯で、現在でも使われています。
大化の改新
天皇 | 要点 | 年号 | 出来事 |
---|---|---|---|
皇極 | 蘇我蝦夷・入鹿の父子の君臨 | 643 | 入鹿が聖徳太子の子を自殺させる |
645 | 乙巳の変…中大兄皇子、中臣鎌足らが入鹿を暗殺・蝦夷は自殺 | ||
孝徳 | 大化改新 | 646 | 改新の詔 |
聖徳太子の死後、独裁的な政治をしていた蘇我蝦夷・入鹿の親子を中大兄皇子や中臣鎌足(のちの藤原鎌足)らが倒して、新しい政治の仕組みをつくる改革を始めました。 朝廷の組織を整え、権力の集中を目指しました。日本で初めて「大化」という年号が使われました。
- 難波宮…都を難波(大阪府)に移しました。
- 公地・公民…それまで豪族が支配した土地を人々を国家が直接支配します。
改新の詔
- 公地公民…食封・布帛の支給
- 地方行政区画の設定
- 戸籍・計帳をつくり、班田収受法をおこなう
- 統一的な税制の確率
中央集権的な交通・軍事制度などが確立していきます。
中国・朝鮮半島の動き
- 中国…7世紀の初め、隋が滅びるが統一。律令などの法律を作り、戸籍に登録した人々に土地を与え、税や兵役を負担させました。都の長安が栄、大帝国をつくり上げました。
- 朝鮮半島…唐と結んだ新羅が百済・高句麗を滅ぼします。日本は百済を助けるために軍送りましたが、白村江の戦いに敗れます。新羅が朝鮮半島を統一します。
政治の進展
白村江の戦いで敗れました。その結果、西日本の各地に山城を築き、唐・新羅からの攻撃に備えます。中大兄皇子は、大津宮(滋賀県)に都を移し、即位して天智天皇となりました。初めて全国の戸籍を作るなど、政治改革を進めました。
- 壬申の乱…天智天皇の没後の跡継ぎ争い。大友王子との戦いに勝って、天武天皇が即位。
律令国家の歩み
天武天皇は、天皇の地位を大幅に高め、都を再び飛鳥に都を移し、律令や歴史書の編さんを命じました。
- 天武天皇の没後、その皇后が持統天皇として即位。
- 本格的な都である藤原京をつくる。
- 律令制度を実施する準備を整える。
- この頃、日本という国は定められました、
藤原京は、持統天皇が、天皇の権力を強めようとして、大和三山(耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)・香具山(かぐやま))に囲まれた地に作った。中国の都にならい、道路によって碁盤の目のように区画されています。
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