中学歴史「第一次世界大戦前後の出来事まとめ」

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中学歴史「第一次世界大戦」についてまとめています。第一次世界大戦に関して、ロシア革命、ベルサイユ条約、国際連盟、アジアの民族運動にもふれています。それでは、中学歴史「第一次世界大戦」です。

第一次世界大戦

第一次世界大戦を前に、列強は、二つに分かれました。

  • 三国同盟…ドイツ・オーストリア・イタリア
  • 三国協商…イギリス・フランス・ロシア

バルカン半島は、列強の利害と民俗、宗教の対立から紛争が絶えず、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。ロシアが南下政策をとり、オーストリアと対立。

第一次世界大戦のきっかけは、サラエボでオーストリアの皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺されたことで始まります。ドイツ、オーストリア、トルコなど同盟国側とイギリス、フランス、ロシアの連合国側が戦う。日本は日英同盟を理由に連合国側で参戦。

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総力戦とその結果

  • 新兵器の登場…戦車・飛行機・毒ガスなど。
  • 総力戦…国民と経済、科学技術や資源を総動員し。国力を使い果たす。

日本の第一次世界大戦への参戦

第一次世界大戦が始まると、ヨーロッパが主要な戦場になり、欧米列強のアジアへの関心はうすれていた。これを好機ととらえて、日本政府(第2次大隈重信内閣)は、世界大戦に参戦して中国での利権を拡大しようとした。こうして、1914年8月、日英同盟を理由にドイツに宣戦し、イギリスが属する連合国側で参戦した。日本軍は11月までに、中国におけるドイツの軍事基地である青島をふくむ山東半島赤道以北のドイツ領南洋諸島の一部を占領した。

日本国内の第一次世界大戦の状況
第一次世界大戦が起こると、国産化が困難で輸入に依存していた機械や化学製品の一部は、深刻な品不足になります。唯一、外貨を稼げるのは、製糸業であり、生糸の大部分はアメリカへ輸出。また、鉄鋼、造船、染料、肥料など重化学工業が成長し、工業は生産総額で農業を上回るようになりました。物資の供給が大不足になり、各種の物価は暴騰します。

ロシア革命

ロシアは日露戦争・第一次世界大戦と続けて参戦したため、民衆の生活は苦しく、帝政への不満が高まり、各地の労働者と兵士はソビエト(ロシア語で「会議」という意味)を組織した。1917年3月に、首都のペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で労働者のストライキや兵士の暴動がおこり、これが全国に広がると、この暴動のなかで帝政が倒され、臨時政府が成立した(三月革命)。

近代の革命史

  • 1789年…フランス革命始まるパスティーユ牢獄襲撃
  • 1830年…フランス七月革命(ルイ=フィリップ即位)
  • 1848年…フランス二月革命(第2共和政)
  • 1848年…三月革命(ドイツ・オーストリア):メッテルニヒ亡命
  • 1853年…クリミア戦争(~56)(聖地管理権問題)
  • 1917年…ロシア革命

十一月革命

臨時政府が戦争を継続したため、1917年11月、レーニンが指導する労働者や兵士・農民らは,臨時政府を倒して、初めての本格的な社会主義政府(ソビエト政府)をつくった(十一月革命)。ソビエト政府は,大地主の土地を取 りあげて農民に分け、資本家の工場や銀行。鉄道などを国営として社会主義国家の建設を進めた。その一方で、交戦国に無併合・無賠償・民族自決を原則とする和平を訴えたが、聞き入れられず、1918年3月、ドイツと単独講和を結んだ。

ロシア国内

ロシア国内では、資本家や地主などがロシア革命に反対して内乱をおこし、諸外国は反革命派を応援して軍隊を派遣した。アメリカ合衆国や日本も1918年にシベリア出兵を行って, ロシア革命に対する干渉戦争をおこしたが、ソビエト軍のはげしい抵抗にあって失敗し、兵を引きあげた。こうして、混乱と危機をのりこえた政府は、1922年12月ソビエト社会主義共和国連邦(略称はソ連)を成立させた。

日本のシベリア出兵

世界大戦が終わると、列国は、まもなくシベリアから撤兵したが、日本だけが1922年まで出兵を続け、国の内外から非難を浴びた。

<出題例>
1918年におきた米騒動の原因を、「シベリア出兵を見こした商人たちが、」の書き出しで書け。
解答(シベリア出兵を見こした商人たちが、)米を買い占めたため、米の値段が急激に上がったから。

独裁と計画経済

レーニンのあとをついで指導者になったスターリンが共産党の独裁体制を指揮しました。重工業中心の工業化と農業の集団化を強行したを五か年計画により成長を遂げる。国の方針に対する反対派を弾圧して、多くの人を処刑する。

民族国家の誕生

ロシアでは革命によって帝政が倒され、ドイツ、オーストリア、トルコは第一次世界大戦に敗れたために帝政から共和政に変わり、四大帝国がなくなった。北ヨーロッパ・東ヨーロッパでは、民族自決主義にもとづいて、四大帝国の支配下から多くの民族国家が誕生した。また、植民地となっていたアジア・アフリカでも独立運動がおこったが、この地域での民族自決は考慮されなかった。

国際協調の高まり

1918年11月にわたる第一次世界大戦が終結すると、1919年1月、戦勝国27か国の代表がフランス外務省に集まってパリ講和会議が開催された。しかし、この会議に敗戦国ドイツなどの参加は認められなかった。

ベルサイユ条約

ドイツが降伏して、第一次世界大戦が終わる。パリ講和会議の前年に、民族自決、軍備の縮小、国際的な平和組織の設立、秘密外交の廃止などの14か条を発表していたアメリカ合衆国大統領のウィルソンは、この方針を会議の原則とするように主張した。しかし、イギリス・フランスなどの戦勝国は自国の利益を優先して、敗戦国にきびしい処置をとることを主張した。この講和会議では、国際連盟の設立やドイツに対する講和の内容が議決された。1919年6月、パリ郊外の地にあるベルサイユ宮殿で、連合国とドイツの間でベルサイユ条約が結ばれた。

ドイツへの処置
ベルサイユ条約では、ドイツに対する処分が決められ、ドイツは本国の領土の約13%とすべての植民地を失った。また、巨額の賠償金を課せられ、軍備も制限された。いっぽう、日本は、中国におけるドイツの権益を受けつぎ、赤道以北のドイツ領南洋諸島に対する国際連盟からの委任統治権を得た。

国際連盟

ウィルソン大統領が14か条の一つとして提案した国際連盟が、1920年に設立された。これは、国際平和の確立と維持をはかるための世界最初の国際平和機構だった。国際連盟の本部はジュネーブ(スイス)におかれ, 総会・ 理事会・事務局や国際労働機関・常設国際司法裁判所が設 置された。理事会では日本・イギリス・フランス・イタリアが常任理事国となり、新渡戸稲造が事務局次長に就任するなど、日本は国際的な地位を高めていった。

国際連盟の実態

提案国のアメリカ合衆国は、議会の反対で国際連盟に加 明できず、ドイツやソ連も初めは加盟を認められなかった。国際連盟の総会での議決方法は全会一致制だったために、議事がはかどらないことが多かった。また、国際連盟には、現在の国連軍のような侵略国などに対して武力制裁を加 えるための軍事力がなく、注意をうながすか、経済制裁を行うことしかできず、国際紛争の解決が困難だった。

軍縮会議の開催

大戦後、列強は再び軍備拡張に力を入れるようになった。そこでアメリカ合衆国は、1921~22年、イギリス・フランス・日本・中国などによびかけて,主要9か国によるワシントン会議を開いた。アメリカの目的は,東アジアでの日本の勢力拡張をおさえるとともに、日本やイギリスとの戦艦建造競争を止めることにあった。

ワシントン会議

ワシントン会議では、1921年に四か国条約、1922年に海軍軍縮条約・九か国条約が結ばれた。

四か国条約

四か国条約は、アメリカ・イギリス・フランス・日本の 間で結ばれた。太平洋の島々での各国の権利をたがいに尊重する内容で、日英同盟は廃止された。

海軍軍縮条約

海軍軍縮条約では、アメリカ・イギリス・フランス・日本・イタリアの間で、主力艦の保有量を制限した。

九か国条約

九か国条約では、会議に参加した9か国が中国の主権を尊重し、中国での各国の経済活動の機会均等と門戸開放を約束した。日本は、この条約にもとづいて中国と直接交渉して、大戦直後にドイツから受けついだ山東省の権益を返還した。

不戦条約

1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、国際紛争の解決に武力は使わないことを定めたが、違反国に対する制裁規定がなく、効果は疑問であった。

ロンドン軍縮会議

1930年に開かれたロンドン軍縮会議では、アメリカ・イギリス・日本の3国間で補助艦の保有量が制限された。日本国内ではこのとき、海軍や野党(立憲政友会)を中心に政府の国際協調の方針に不満が高まり、浜口雄幸首相が襲撃されて重傷を負い、のちに死亡する事件がおこった。

大衆の時代

  • アメリカ、イギリスなど女性の選挙権が認められる。イギリスで初の労働党内閣が誕生。
  • ワイマール憲法…1919年に公布されたドイツの憲法。国民主権、満20歳以上の男女が普通選挙権、労働者の団結権などを認めました。

アジアの民族運動

中国の反帝国主義運動

日本政府は政情の不安定な中国の袁世凱政府に対して、1915年1月、二十一か条の要求をつきつけた。二十一か条の要求のなかで、日本は中国に対して、➊山東省にあるドイツの権益を受けつぐこと、➋旅順・大連の租借期限や南満州鉄道の利権の期限延長、➌南満州や内モンゴルでの日本の利権の拡大、➍日本人を政治・財政・軍事顧問として中国政府に採用することなどを要求した。

中国の日本に対する対応
中国政府は、二十一か条のの要求を内外に発表して、その不当性を訴えるなど強く抵抗したが、日本は軍事力を背景にして、日本人顧問の採用など一部分を保留にし、1915年5月9日、要求の大部分を認めさせた。日本の要求は中国の主権を侵すものだったため、中国の人々は強く反発し、5月9日を「国恥記念日」として、各地ではげしい反日運動がおこった。また、中国での日本の利権拡大に対して、欧米諸国の警戒を招くことになった。

五・四運動

北京での学生集会をきっかけに、反日運動が起こる。帝国主義に反対する国民運動へと発展。孫文が、中国国民党を結成し、中国共産党と協力して民族の自立と国家の統一を目指しました、

三・一独立運動

朝鮮の独立運動で、日本の植民地支配下の朝鮮て、知識人や学生がソウル(京城)で独立を宣言する文書を発表。人々は「独立万歳」と叫んでデモ行進を行いました。朝鮮総督府(日本が朝鮮支配のために設置した機関)が武力で鎮圧する一方で、政治的な権利を一部認めるなどの統治の方針を示しました。

インドの民族運動

戦争に協力すれば自治と認めるという約束をイギリスを守らなかったため、独立をめざす運動が高まりました。。ガンディーが、非暴力、不服従を唱え、独立運動を指導。完全な自治を求めました。

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