【中学歴史】平安時代の要点まとめ

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中学歴史「平安時代」についてまとめています。平安時代に関して、平安京、新しい仏教、摂関政治、国風文化などにふれています。

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平安時代の要点

奈良時代中ごろから貴族や僧の勢力争いが激化しました。桓武天皇は、新しい都で政治を立て直そうとしました。長岡京(京都市)、それから794年に平安京(京都市)に都を移しました。平安京に都を移されてから鎌倉幕府が成立までの約400年間を平安時代といいます。

桓武天皇の政治

東北地方と九州地方以外で一般の人々の兵役をやめ、役所を整理し、国司の監督を強化しました。戸籍のいつわりが増加し、班田収授法も行われなくなっていきました。

東北地方の征討

東北地方に住み、朝廷に従おうとしない蝦夷に対し、朝廷にたびたび大軍を送りました。坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、アテルイを指導者とする蝦夷の抵抗をおさえて東北地方に勢力にのばします。のちに、胆沢城などを築きました。

仏教の新しい宗派

805年、唐(中国)から帰国した最澄(伝教大師)は、比叡山(滋賀県)に延暦寺を開いて天台宗を広めた。いっぽう、806年に唐から帰国した空海(弘法大師)は、高野山(和歌山県)の金剛峰(案)寺や東寺(京都市)で真宗を広めた。最澄と空海は、804年に、遣唐使とともに唐に留学して、仏教を学んだ。

天台宗や真言宗は奈良仏教とちがって、政治からはなれ、山中での修行を重んじ、国家の平安を祈ることを目的としていた。桓武天皇は、最澄の天台宗を保護し、嵯峨天皇は、空海の真言宗を保護した。天台宗と真言宗はは以後、朝廷や貴族の信仰を集めて栄え、貴族のためにまじないや祈り(加持祈とう) を行うようになった。このような仏教を密教とよんでいる。

  • 神仏習合…仏教と日本古来の神々への信仰を同一視したり、融合させたりする理想を神仏習合という。神仏習合は奈良時代から始まり、平安時代は本地垂迹説が生まれた。
  • 本地垂迹説…本来は仏や音隆であるもの(本物)が、母の人々を救うため仮に日本の神々の姿をとってあらわれる(垂迹)という説

平安時代初期の文化

平安時代初期には、密教の影響を受けた文化が栄えました。平安時代の初期には唐風文化が全盛となり、漢文学が栄え、漢詩文や書道は貴族の教養とされ、菅原道真や空海が文人としても活躍した。

また、新しい仏教(密教)の影響を受けて、寺院は山中に建てられるようになり、神秘的な仏教美術が栄えた。室生寺(奈良県)の五重塔や金堂、観心寺(大阪府)の如意輪観音像などが、平安時代を代表する遺産として有名である。

11世紀ごろの東アジアの変化

11世紀の東アジア
唐のおとろえと往復の危険を理由に菅原道真が遣唐使の停止をうったえ、認められました。

  • 中国…10世紀のはじめ、唐がほろびます。小国の分立を経て、宋(北宋)が中国を統一します。
  • 朝鮮半島…新羅がほろんで高麗がおこります。

日本は、北宋と高麗とは正式な国交は結ばず、商人が交易を行いました。

摂関政治

藤原氏は娘を天皇のきさきにし、その子を次の天皇に立てることで勢力をのばす。摂関政治とは、天皇が幼いときは、摂政、成長後は関白の職について政治の実権を握る政治です。

  • 藤原道長・頼道父子の時代…摂関政治が最も安定した時期です。藤原氏は、朝廷の高い地位を独占し、高い給与を受け取り、国司からの贈り物、広大な荘園などがその象徴です。

地方政治は、国司の任せきりになっていました。自分の収入を増やすことにはげむ国司や任地には代理を送り収入だけを得る国司が多くなりました。

国風文化

日本の風土や生活、日本人の感情に合った貴族たちの文化が生まれます。これが国風文化です。

  • かな文字…漢字を変形させて、日本語の発音をあらわせるようにくふうした文字です。人々の感情を書き表せるようになりました。
  • 紀貫之…天皇の命で和歌集の古今和歌集を編集
  • 紫式部…源氏物語
  • 清少納言…枕草子
  • 大和絵…日本の自然や風俗をえがいた絵。「源氏物語絵巻」など。

浄土信仰

  • 浄土信仰…念仏を唱えて、阿弥陀如来にすがり、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う思想。
  • 極楽浄土…阿弥陀如来がいる、あらゆる苦しみのない世界です。
  • 平等院鳳凰堂…京都の氏に藤原頼道が建立しました。阿弥陀如来の像やそれをおさめる阿弥陀堂がつくられました。

都の貴族からしだいに地方にも広まった文化です。

武士のおこり

10世紀ごろから、国司が不正に税を取り立てたり、土地をうばったりするなど、地方政治が乱れるなかで、豪族や名主らは、土地を守り、勢力を広げるため、一族の者や家来に武芸を習わせた。これが武士のおこりである。ただ、武士の中には、国司に仕えて地方の役所(国府)の警備にあたる者や、都で宮中の警備にあたる者もいた。

豪族や名主とは…
私有地を持つ有力農民

地方の豪族と中央の武官が交流し、武士がおこり、武士団を形成しました。

  • 地方…豪族が私有地を広げ、警備に武力を発揮して勢力のばしました。
  • 都…朝廷の武官が貴族の警備を行い、実力を認められます。

■ 武士団の反乱

  • 平将門…関東で、反乱を起こしました。(935年)
  • 藤原純友…瀬戸内海地方で、反乱をおこします。(939年)
  • 朝廷…反乱をおさえるために、武士団を使いました。

武士の成長と荘園
天皇の子孫である、2つの武士団がしだいに台頭。

  • 源氏…東北地方の大きな戦乱(前九年合戦、後三年の役)をしずめた源義家が東日本で勢力を広げます。
  • 平氏…西日本に勢力が伸ばします。

武士は領地を中央の貴族や寺院に寄進して荘園としました。寄進先の貴族や寺院の保護を受けます。武士も成長し、国司も荘園以外の土地を支配しました。やがて公領も武士の勢力下となりました。

武士の成長
皇族出身の源氏平氏は、多くの武士を従えて大武士団を形成し、その棟梁(一族の長)として勢力を強めていった。武士が力をつけてくると朝廷に対して反乱をおこす者が現れ

  • 935年…下総(千葉県北部と茨城県の一部)の豪族の平将門が関東で乱(平将門の乱)をおこす。
  • 939年…瀬戸内海一帯で藤原純友が海賊を率いて乱(藤原純友の乱)をおこしたが、941年に源経基らに平定された。
  • 940年…一族の平貞盛や藤原秀郷らに討たれた。

これらの地方武士の反乱は、貴族には手におえず、同じ武士の力で平定されたことから、朝廷や貴族は武士の力を認めざるをえなくなり、地方武士を都によび出し、屋敷や身辺の警護などをさせるようになった。

東北地方の武士
東北地方で1051年に陸奥の豪族の安倍氏が国司に対して反乱をおこし前九年の役(合戦)、1083年には、出羽の清原氏の間で内部争い後三年の役(合戦)がおこった。この2度の争乱を源頼義・義家父子らが平定したことから、以後、源氏は東国で勢力をのばしていった。

後三年の役(合戦)に勝利した藤原(清原)清衡は、平泉(岩手県)を根拠地にして勢力を広げ、基衡・秀衡と続く奥州藤原氏3代、約100年の栄華のもとを築い。中尊寺金色堂に代表される平泉文化が栄えた。

  • 中尊寺金色堂…地方に伝わった浄土教の影響を強くうけた建築物である。
  • 阿弥陀堂…院政期には奥州藤原氏によって、平泉に阿弥陀堂を中心とする寺院が建立された。
  • 厳島神社…平安時代末期には、平清盛ら平家一門が、厳島神社を信仰し華麗な装飾をほどこした経巻を奉納した。

院政

白河天皇が位をゆずって上皇になった後も政治を行います。天皇が位をゆずって上皇になった後も政治を行うことを院政といいます。荘園に対し、税の免除によって、荘園が上皇のもとに集まりました。

  • 寺社…上皇に保護され、多くの荘園を持ちました。僧兵(そうへい)を抱えて勢力を広げました。

平清盛の政治

平清盛は、1156年の保元の乱に勝って、中央政界に進出し、1159年の平治の乱で源義朝を破って、勢力を伸ばしました。1167年には、武士として初めて太政大臣となり、貴族に変わって政権を握りました。

太政大臣
律令制における太政官の長官で、いつもおかれたわけでなく適任者がいなければ、欠員とされた。藤原道長や藤原頼道、平清盛などが太政大臣となりました。太政大臣自体は、特別な実権はなく、朝廷で勢力を示すための名誉職的な存在だった。

一族も高い地位につき、多くの荘園を手に入れました。また、兵庫(神戸市)の港を整備、航路を整え、宋(中国)と貿易しました。平氏が朝廷の政治を思うままに動かしました。

■ 保元の乱
1156年に、上皇と天皇対立に、藤原氏の内部での対立がからんで、武士をまきこんでおこりました。この戦いで、平清盛と源義朝が勢力を伸ばしました。

■ 平治の乱
1159年に、貴族の争いに平清盛と源義朝の対立がからんで、平治の乱がおこりました。この戦いで、平清盛が勝ち、源氏の勢力はおとろえました。こののち、平氏は勢力を強め、やがて全盛期を迎えます。

■ 大輪田泊と日宋貿易
現在の神戸港のもとになった港で、平清盛が修築して日宋貿易を行いました。日本は、金・水銀・硫黄・漆器・刀剣を輸出し、宋銭・陶磁器・香料・書籍などを輸入しました。

源平合戦(争乱)

平清盛が太政大臣となったのをはじめ、平氏一族は高い位につき、武家政権を開きました。

多くの荘園を手に入れたことや航路や港を整備して栄との貿易から利益を得たことなどで、経済的な力をたくわえました。平清盛が、幼い孫を安徳天皇として、朝廷の政治を思うままに動かし始めたことから、貴族や寺社の間に平氏への反感が高まりました。

平清盛と後白河上皇との対立が源平の争乱へと拡大しました。平清盛が後白河上皇を幽閉して院政を停止させると、後白河上皇の皇子が平氏追討の命令を出しました。→諸国の武士が兵をあげました。

■ 争乱の経過

  • 石橋山の合戦(1180年)…源頼朝 が伊豆(静岡県)で挙兵しました。
  • 倶利伽羅峠の戦い(1183年)…源義仲が平氏を都から追い出しました。
  • 一の谷の戦い(1184年)…源義経が上皇と対立した源義仲を破りました。源義経が一の谷の戦い(神戸市)で平氏を破りました。
  • 壇ノ浦の戦い(1185年)…源義経らが、壇ノ浦(下関市)で平氏をほろぼしました。

鎌倉(神奈川県)を本拠地にし、関東地方を支配します。弟の源義経に平氏を攻めさせます。壇ノ浦(山口県)で源氏が平氏を滅ぼしました。

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