【中学歴史】執権政治・地頭の支配・武士の生活

【中学歴史】執権政治・地頭の支配・武士の生活についてまとめています。

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執権政治

源頼朝の死後、争いがおこり、北条時政(頼朝の妻で北条政子の父)に実権が移ります。以後、北条氏が執権の職につき、地位を独占するようになります。(執権政治)

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇は、1198年に土御門天皇に位をゆずって上皇となり、院政を始めた。源氏の将軍が3代で絶えると、政権を朝廷に取り戻そうと、1221年に、執権北条義時追討の命令を出して討幕の兵をあげたが、幕府の大軍に敗れます。この結果、後鳥羽上皇は壱岐(島根県)に流されます。後鳥羽上皇は、藤原定家らに新古今和歌集の編集を命じます。1205年に完成。

承久の乱

朝廷の勢力回復を図る後鳥羽上皇は、1221年、幕府をたおすために兵をあげます。北条政子のうったえで、幕府は朝廷を軍を破ります。承久の乱ののち、京都に六波羅探題を設置して朝廷を監視。これにより幕府の支配力が西日本にまで及びました。

六波羅探題

承久の乱後には、幕府は京都守護にかえて六波羅探題を設置して、西国の御家人を統制すると共に、朝廷の監視を行い京都の整備にもあたらせた。 幕府はそれまでの本補地頭に加え、新たに新補う地頭を設置した。また、新たに地頭の得分を定めた新補率法が定められた。新補率法は新補地頭にのみ適用された。

地頭の支配

  • 地頭の支配…土地の開発を進め、農民を使って農業を営む。板ぶきの簡素な屋敷で、質素な生活を送ります。
  • 農民…年貢を荘園や公領の領主におさめました。
  • 地頭…地頭になった武士の農民を勝手に支配するようになりました。地頭と領主との間で争いが起こりました。争いを幕府がさばきます。土地の半分が地頭にあたえられたり(下地中分(したじちゅうぶん))、地頭の一定額の年貢を請け負って、領主におさめたりするようになりました。地頭の権利が強くなります。

武士の生活

鎌倉時代の武士は、ふだんは先祖伝来の領地で農業を営み、田畑を配下の農民に耕作させ、自らは地頭や荘園の管理者として年貢の取り立てを請け負っていた。また、領地内の微高地に板ぶきの簡素で実用的な館を建て、物見やぐらを設け、周囲に堀や土塁・塀などをめぐらして、敵からの攻撃にそなえた。つねに馬や弓矢の武芸によって心身をきたえる。→「弓馬の道」「武士の道」と呼ばれ、名誉を重んじ、恥をきらう態度や心構えが育ちました。

  • 武士の家…一族の長である惣領(そうりょう)が中心となって子や兄弟などをまとめます。領地は分割相続で女子にもあたえられます。女性の地頭も多くいました。

武士の社会

武士の社会では、一族の長を惣領といい、一族は固い団結でまとまっていた。財産は分割相続で、鎌倉時代の前半までは女性にも相続権が認められ、妻は自分の財産を夫の許可なしに処分できた。女性が地頭になることもあった。

武士はいざ鎌倉(合戦)にそなえて、日ごろから笠懸・流鏑馬などを行って、武芸をみがいていた。また、「弓馬の道」などとよばれる武勇・忠孝・礼儀を尊び、名誉を重んじ、卑劣な行いを恥とする心がまえを育てていった。

武士のための法律

1232年に北条泰時が御成敗式目を制定しています。執権政治を進めるための法律で、武士の慣習にも基づいて定められました。朝廷の律令とは別に独自に制定しました。長く武士の法律の手本となりました。

農民のくらし 農業生産は向上し、農民は不当な支配に抵抗するようになった。鎌倉時代にはかんがい設備が整い、用水池もさかんにつくられ、水車も利用されるようになった。すき・くわなどの鉄製農具や牛馬耕が広まったことから、開墾も進んだ。また、稲の品種改良や草木灰が肥料として使われて生産量が増え、近畿地方を中心に水田の裏作に麦をつくる二毛作も始まった。しかし、農民は、荘園領主・地頭の両方から年貢や労役を負わされ、二重の負担に苦しんだ。こうしたなかで、地頭の横暴を荘園領主に訴えたり、団で逃亡するなど、農民が抵抗するようになった。 経済の発展

農村では、農具をつくる鍛冶屋、衣服の染物を行う紺屋(こんや・こんや)などの手工業者が住みつきます。寺社の門前や交通の便利なところで決まった日に開かれ、米や布などの商品を並べて売る定期市が開かれます。港に町が生まれます。

  • 土地の開発…農民が行いました。民衆の団結が強まりました。農民の土地の所有権が強くなっていきました。

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