中学歴史「天保の飢饉と大塩平八郎の乱」

シェアする

スポンサーリンク

中学歴史「天保の飢饉と大塩平八郎の乱」についてまとめています。大塩平八郎、はききんに苦しむ貧民救済のため、乱をおこします。このあたりについて、詳しく記述しています。それでは、中学歴史「天保の飢饉と大塩平八郎の乱」です。

天保の飢饉

1830年代には、東北・北陸・関東地方を中心に冷害・洪 水・暴風雨などが原因で、全国で大ききんが続いた。1836年の収穫高は平年の40%という不作で、各地でうえ 死にする者が続出した。これを天保のききんという。このききんは、慢性的な(長びいて、なかなか収まらない)様相を示し、米価をはじめとする諸物価が上昇したため、人々の生活は苦しく、百姓一揆や打ちこわしが続発した。

  • 江戸では、幕府が「お救い小屋」を設けて苦しむ人々に手 をさしのべたため、どうにか、打ちこわしなどを防げた。
  • 大阪では、ききんの影響が大きく、うえ死にする者があいついだ。しかし、大阪の大商人は米を買い占め、大阪町奉行所は救済策をとることもせずに、幕府の指示で米を江戸に送っていた。
スポンサーリンク

大塩の乱

もと大阪町奉行所の役人で陽明学者の大塩平八郎は、町奉行所に貧民の救済を求めたが、相手にされなかった。そこで大塩は、蔵書を売ったお金を分けあたえて貧しい人々によびかけ、1837年2月、貧民救済と幕府の政策の転換を求めて門弟とともに乱をおこし、大商人らをおそった。乱はわずか半日で鎮圧されたがm直轄都市の大阪で、しかも、幕府の元役人がおこしたということで、幕府はこの事件に大きな衝撃を受けた。その後、大塩の乱は各地の人々にも大きな影響をあたえた。

江戸時代の三大飢饉

  • 享保のききん…1732年、長雨とイナゴの害がおもな原因で、西日本一帯でおこった。
  • 天明のききん…1782年から1787年にかけて、洪水・浅間山の噴火・東北地方の冷害などが原因で連続的に発生した。
  • 天保のききん…1833年ごろから1837年にかけて、冷害・洪水・暴風雨などが原因で全国的に おこった。

まとめ

天保の飢饉で多くの死者が出る。各地で百姓一揆、打ちこわし。大阪では、もと大阪町奉行所の役人の陽明学者の大塩平八郎が兵をあげる。岡山では渋染一揆(しぶぞめいっき)がおきる。

このころ

通商を求めて日本に接近する欧米諸国の船が増えた。しかし、幕府は外国からの接触を拒絶し鎖国政策を続けた。

  • 外国船の接近…19世紀になるとロシア・イギリス・アメリカの船が日本に近づくようになった。
  • 異国船打払令…1825年沿岸防護と外国船追放が目的。外国船の打ち払いを批判した学者は厳しく処罰された。

あわせて確認

スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

スポンサーリンク