中学歴史「ベルサイユ条約」

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中学歴史「ベルサイユ条約」についてまとめています。パリ講和会議が開かれ、ドイツとの間でベルサイユ条約が結ばれます。その後、民族自決主義にもとづいて、多くの民族国家が誕生します。そのあたりについて、詳しく記述しています。それでは、中学歴史「ベルサイユ条約」です。

ベルサイユ条約

1918年11月にわたる第一次世界大戦が終結すると、1919年1月、戦勝国27か国の代表がフランス外務省に集まってパリ講和会議が開催された。しかし、この会議に敗戦国ドイツなどの参加は認められなかった。
確認中学歴史「第一次世界大戦」

講和会議の前年に、民族自決、軍備の縮小、国際的な平和組織の設立、秘密外交の廃止などの14か条を発表していたアメリカ合衆国大統領のウィルソンは、この方針を会議の原則とするように主張した。しかし、イギリス・フランスなどの戦勝国は自国の利益を優先して、敗戦国にきびしい処置をとることを主張した。この講和会議では、国際連盟の設立やドイツに対する講和の内容が議決された。1919年6月、パリ郊外の地にあるベルサイユ宮殿で、連合国とドイツの間でベルサイユ条約が結ばれた。

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ドイツへの処置

条約では、ドイツに対する処分が決められ、ドイツは本国の領土の約13%とすべての植民地を失った。また、巨額の賠償金を課せられ、軍備も制限された。いっぽう、日本は、中国におけるドイツの権益を受けつぎ、赤道以北のドイツ領南洋諸島に対する国際連盟からの委任統治権を得た。

民族国家の誕生

ロシアでは革命によって帝政が倒され、ドイツ、オーストリア、トルコは第一次世界大戦に敗れたために帝政から共和政に変わり、四大帝国がなくなった。北ヨーロッパ・東ヨーロッパでは、民族自決主義にもとづいて、四大帝国の支配下から多くの民族国家が誕生した。また、植民地となっていたアジア・アフリカでも独立運動がおこったが、この地域での民族自決は考慮されなかった。

ロシア革命

第一次世界大戦が長引くとロシアで戦争や皇帝の専制による民衆の不満が爆発。「パン・平和・自由」を求めて、労働省のストライキや兵士の反乱が続き、代表会議=ソビエトが各地で形成されました。皇帝が退位して、共和制の臨時政府ができますが、政治は安定しなかった。レーニンが革命を指導、帝国主義を批判し、労働者と農民の独裁を唱えた。社会主義を唱える世界で最初の政府ができました。

民族自決とベルサイユ体制

民族自決主義は、いかなる民 族も他民族に支配されず、平等と独立を認められるという考えである。また、ベルサイユ条約締結後の民族自決主義と国際 調にもとづく国際秩序を「ベルサイユ体制」という。

まとめ

ドイツが降伏して、第一次世界大戦が終わる。

ベルサイユ条約…パリ講和会議が結ばれる。ドイツの植民地を失い、領土を縮小され、巨額の賠償金と軍縮縮小を課せられました。日本はドイツか持っていた中国の山東省の権益、植民地の委任統治権を得る。

あわせて確認

以上が、中学歴史「ベルサイユ条約」となります。

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