中学歴史「邪馬台国」

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中学歴史「邪馬台国」についてまとめています。

邪馬台国の時代

大陸の情勢と国のテロ 紀元前後の日本は、100余りの小国が分立していた。 中国では、長く漢が支配を続けていたが、220年に漢(後漢)が農民の反乱で滅びた。その後は魏・呉・蜀の3国が中国を分割して争う三国時代となった。朝鮮半島には、漢が紀元前108年に楽浪郡をおいていたが、その後、3世紀初めごろに公孫氏(遼東地域の支配者)が楽浪郡の南部をさいて帯方郡をおいた。

朝鮮半島北部では、紀元前後ごろの日本は、前漢の歴史を記した『漢書』地理志によると、100余りの小国が分立していたとある。また、『後漢書』東夷伝には、この小国の一つである奴国の王が使節を送って、57年に後漢の光武帝に貢ぎ物を贈り、皇帝から金印を授かったと記されている。

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邪馬台国

魏についての歴史を書いた『魏志』倭人伝には、邪馬台国は2世紀末ごろに成立し、30余りの小国を従えていたと記されている。卑弥呼は諸国の王たちによって女王に立てられ、まじないによる政治を行っていた。卑弥呼は宮殿の奥深くに住んでいて、人前には出ず、政務は弟があたっていた。邪馬台国には、大人(支配者)・下戸 (庶民=一般の人々)・生口(奴隷)という身分があり、人々は 農耕・漁・織物などの仕事にたずさわっていた。

239年、卑弥呼は魏に使者を送り、親魏倭王」の称号と金印や100枚の銅鏡などを授かったとされる。また、卑弥呼が218年ごろに亡くなると、大きな墓がつくられたという。その後、男王が立てられたが争いが続いたため、壱与(台与) が女王となったが、266年に中国に使者を送ったのを最後として、邪馬台国についての記述は歴史書から姿を消した。邪馬台国の位置は九州北部説、または畿内説(大和説)が有力だが、まだ確定されていない。

まとめ

  • 「漢書」…紀元前後のころ、倭(日本)には100余りの国があり、楽浪郡を通じて漢に使いを送る国もありました。
  • 「後漢書」…1世紀半ばに、倭の奴国の王が、後漢に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王」が刻まれた金印を授けられます。
  • 中国…後漢が滅び、魏・蜀・呉のの三国争う(三国時代)、邪馬台国は魏に朝貢していました。
  • 「魏志倭人伝」…邪馬台国の女王(卑弥呼)が、倭の30余りの国を従えます。魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の称号と金印を授けられました。
    邪馬台国のあった場所については、近畿(大和、奈良県)説と九州説とに分かれています。

あわせて確認

以上が、中学歴史「邪馬台国」となります。

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