【中学歴史】弥生時代の要点まとめノート

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中学歴史「弥生時代」についてまとめています。

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弥生時代

弥生文化の成立がします。稲作の伝来は、紀元前4世紀頃に、大陸(おもに朝鮮半島)から九州北部に伝わります。弥生時代の始まりを紀元前10世紀頃とする説もあります。)

  • 人々は水田の近くに、むらをつくって、たて穴式住居に住みます。
  • 高床倉庫…ねずみや湿気を防ぐために作られ、収穫した米を蓄えます。
  • 稲の穂をかり取るために、石包丁を利用しました。

金属器の伝来

稲作とともに大陸から伝わります。

  • 青銅器…祭りのための宝物(銅鏡・銅鐸・銅剣など)
  • 鉄器…武器や工具として用いられています。
  • 弥生土器…高温で焼かれたため、赤褐色をしています。薄手で固めの土器です。

遺跡

登呂遺跡(静岡県)、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)など。

吉野ヶ里遺跡は、弥生時代の大規模な集落で、二重のほりに囲まれ、ところどころに見張りのための物見やぐらが建てられていた。このことから周辺のくにと争いがあったことが予想されます。

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国々の誕生

  • 稲作がさかんになると、社会の仕組みが変わります。支配者の誕生。
  • 小さな国々ができ、人々を支配する有力者(豪族)や王が出現。
  • 「漢書」…紀元前後のころ、倭(日本)には100余りの国があり、楽浪郡を通じて漢に使いを送る国もありました。
  • 「後漢書」…1世紀半ばに、倭の奴国の王が、後漢に使いを送り、皇帝から「漢委奴国王」が刻まれた金印を授けられます。

東アジア情勢

大陸の情勢と国のテロ 紀元前後の日本は、100余りの小国が分立していた。中国では、長く漢が支配を続けていたが、220年に漢(後漢)が農民の反乱で滅びた。その後は魏・呉・蜀の3国が中国を分割して争う三国時代となった。朝鮮半島には、漢が紀元前108年に楽浪郡をおいていたが、その後、3世紀初めごろに公孫氏(遼東地域の支配者)が楽浪郡の南部をさいて帯方郡をおいた。

朝鮮半島北部では、紀元前後ごろの日本は、前漢の歴史を記した『漢書』地理志によると、100余りの小国が分立していたとある。また、『後漢書』東夷伝には、この小国の一つである奴国の王が使節を送って、57年に後漢の光武帝に貢ぎ物を贈り、皇帝から金印を授かったと記されている。

邪馬台国

魏についての歴史を書いた『魏志』倭人伝には、邪馬台国は2世紀末ごろに成立し、30余りの小国を従えていたと記されている。卑弥呼は諸国の王たちによって女王に立てられ、まじないによる政治を行っていた。卑弥呼は宮殿の奥深くに住んでいて、人前には出ず、政務は弟があたっていた。邪馬台国には、大人(支配者)・下戸 (庶民=一般の人々)・生口(奴隷)という身分があり、人々は 農耕・漁・織物などの仕事にたずさわっていた。

239年、卑弥呼は魏に使者を送り、親魏倭王の称号と金印や100枚の銅鏡などを授かったとされる。また、卑弥呼が218年ごろに亡くなると、大きな墓がつくられたという。その後、男王が立てられたが争いが続いたため、壱与(台与) が女王となったが、266年に中国に使者を送ったのを最後として、邪馬台国についての記述は歴史書から姿を消した。邪馬台国の位置は九州北部説、または畿内説(大和説)が有力だが、まだ確定されていない。

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