中学歴史「室町時代の要点ノート」

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中学歴史「室町時代」についてです。室町時代に関して、貿易、琉球王国、産業、村の自治などにふれています。

鎌倉時代の滅亡

交通が活発になり、海辺に港が栄えます。経済力で豊かになった武士が成長します。経済の活発な近畿地方を中心に、荘園領主や幕府に従わず、年貢をうばう武士(悪党)があらわれました。

御家人は、領地の分割相続によって生活が苦しくなり、土地を失うものが出てきました。幕府は借金を帳消しにする徳政令を出し、御家人の失った土地を返させようとしましたが、あまり効果は上がりませんでした。また、元寇で十分な恩賞が得られなかった御家人の間に、幕府の反感が強まりました。

モンゴル帝国の拡大

  • チンギス・ハン…モンゴル民族を統一、モンゴル帝国を建てます。ユーラシア大陸の東西にまたがる大帝国へ。
  • フビライ・ハン…5代目。都を大都(北京)に移し、国号を元に定めます。宋(南宋)を破り中国全土を支配します。
  • モンゴル帝国…陸路・海路を整えました。ヨーロッパからキリスト教を布教する宣教師や商人が訪れます。フビライに仕えたイタリア人のマルコ・ポーロは「世界の記述」(東方見聞録)のなかで、日本を「黄金の国ジパング」と紹介。
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北条時宗

元寇のときに幕府を指揮した8代執権。元のフビライ=ハンから属国となることを求める国書がとどき、これを拒否したため、元寇がおこった。1274年に文永の役では、元の集団戦法や火薬兵器による攻撃に苦しめられた。このあと、九州北部の沿岸に石塁を築き、1281年の弘安の役では上陸を許さず、暴風雨もあって元軍は退却しました。北条時宗が建立した円覚寺は、宋から招かれた際学部元が開山となり、代表的な禅宗様の建物を現在に伝えている。

元寇
日本を従わせようとするフビライの要求を執権北条時宗が拒否。元が高麗の軍勢とともに攻めてきました。

  • 文永の役…1274年。元軍は対馬・壱岐をへて、博多湾岸(福岡市)に上陸。元軍の集団戦法と火器に対し幕府軍は苦戦しましたが、内紛や暴風雨のため元軍は引きあげます。
  • 弘安の役…1281年。元軍は、御家人の活躍や、海岸に築かれた石塁で上陸できませんでした。暴風雨のため引きあげます。

元との交易は行われていました。銅銭や綿織物、陶磁器などが日本に輸入されました。

後醍醐天皇

後醍醐天皇は、政治の実権を朝廷にもどすため倒幕を計画しました。失敗して隠岐(島根県)に流されます。楠木正成などの新興武士や足利尊氏らの有力御家人も倒幕に加わります。1333年、鎌倉幕府を滅ぼします。

建武の新政

鎌倉幕府滅亡の翌年(1334年)、後醍醐天皇は年号を「建武」と改め、自ら政治をとった。これを建武の新政という。後醍醐天皇は、公家と武家を統一した天皇中心の政治を理想とし、公家・武家の区別なく役人に任じることを方針とした。しかし、実際は理想に反して、公家を重視した政治が行われた。

  • 中央…摂政・関白が廃止
  • 地方…将軍府や鎌倉将軍府などの機関がおかれた。

武士への恩賞

武士には恩賞が少なく、そのうえ新しい税を課し、それまでの武士社会の慣習を無視した政策を進めたため、政治の混乱がおこり、公家と武士の対立を招いた。こうして後醍醐天皇の政治に不満が高まり、とくに武士は、武家政治の復活を望むようになった。

南朝と北朝の争い

武家政治の復活をねらう足利尊氏は、武士の不満を受けて、1335年、対立する新田義貞の打倒を名目にして兵をあげ、京都に攻めこんだが失敗した。いったん九州にのがれた足利尊氏は、1336年に再び兵をあげ、京都を占領した。そのため、後醍醐天皇は吉野(奈良県) にのがれ、建武の新政は2年余りでくずれた。

南北朝時代

この1336年、後醍醐天皇は吉野に南朝をおこし、新田義貞・北畠親房のほか、地方の武士を味方にして政治を行い、足利尊氏は、京都に光明天皇を立て北朝を開かせた。諸国の武士は、2つの朝廷のどちらかについて争うようになり、約60年にわたって動乱が続いた。この時代を南北朝時代という。やがて、有力な守護が北朝 側につくようになり、南朝の勢力はおとろえていった。

  • 北朝…足利尊氏が、京都に新しい天皇を建てます。
  • 南朝…後醍醐天皇は、吉野(奈良県)にのがれます。

室町幕府

足利尊氏が北朝から征夷大将軍に任命され、京都に室町幕府を開きます。主語の権限を強め、武士をまとめようとしました。守護の多くは自分の領地を拡大していきました。京都に幕府が置かれた時代を室町時代といいます。

足利義満

足利義満が3代将軍であり、太政大臣にもなりました。1392年に南北朝を統一します。室町時代は、朝廷の権限を吸収し、全国を支配する唯一の政権となります。京都の室町に御所を建てました。室町時代の由来はもなりました。花の御所とも呼ばれ、京都の文化を象徴しています。

京都の土倉(どそう)や酒屋と呼ばれる金融業者を保護します。幕府は土倉や酒屋からの税によって経済的に豊かになりました。

室町幕府のしくみ

室町幕府のしくみ

  • 管領…将軍の補佐役。有力な守護が任命されました。
  • 侍所…京都を支配し、御家人を統率しました。長官には有力な守護が任命されました。
  • 鎌倉府…鎌倉に置かれ、関東の支配にあたります。

守護大名と地方の動き

守護大名とは地方の守護は、国司の権限を吸収しました。国内の武士をまとめ、独自の支配をするようになりました。武士の中には城や館を築いて領地の支配を強め、一揆をおこして守護大名に対抗するものもいました。

  • 鎌倉府…足利氏の一族が、鎌倉公方として関東を支配しました。

日明貿易

勘合貿易
勘合貿易は、1404年、足利義満は明との間で貿易を始めた貿易です。

勘合貿易とは
倭寇の中国沿岸への襲来に苦しむ明は、日本に倭寇の取りしまりと、国交を求めてきた。南北朝の動乱を収めた足利義満は、これを受け入れて倭寇の取りしまりを命じ、明と国交を開いた。明は日本を属国とみなして朝貢(使節を送り、貢ぎ物をさし出す)形式をとるように要求していました。

足利義満の対応

足利義満は、貿易の利益を幕府の財源にしようと考え、「日本国王臣源」と名のって臣下としての立場をとり、1404年、明との貿易を始めた。この貿易は、正式な貿易船と倭寇を区別するために、勘合という合い札(証明書)が用いられたことから、勘合貿易とよばれます。

勘合貿易の実権

勘合貿易の実権は、初めは幕府がにぎっていましたが、応仁の乱(1467年から1478年)で幕府の勢力がおとろえてからは細川氏や大内氏など、西日本の有力な守護大名の手に移っていきました。とくに、堺(大阪府)の商人と結んだ細川氏と、博多 (福岡市)の商人と結んだ大内氏が、主導権を争いました。

勘合貿易の輸出・輸入品

勘合貿易では、日本から刀剣・銅・硫黄・扇・漆器などが輸出され、明からは銅銭(永楽通宝など)・絹織物・生 糸・陶磁器・書画などが輸入されました。

勘合符

明との貿易で、正式な貿易船と倭寇を区別するために使用された合い札。日本の貿易船は、幕府から「本字勘合」の左半分をもらい、寧波の港で底簿に墨印された右半分と照合し、正式な貿易船であることが確認されると、北京で交易を行いました。

明は、漢民族がモンゴル民族を北に追い出し、明を建国します。倭寇は、西日本の武士や商人、漁民が集団をつくって貿易を強要。船をおそい、大陸沿岸をあらしたので、明がとりしまりを日本に求め、足利義満が禁じました。

朝鮮との貿易

  • 高麗…書物の印刷に金属活字を使い、わたを栽培。元に服属し、新しい技術を取り入れました。
  • 朝鮮国…李成佳が高麗をほろぼし、建国。ハングルという文字をつくるなど、独自の文化が発展。
  • 日朝貿易…朝鮮も倭寇の取りしまりと貿易を求めたため、足利義満は、日朝貿易を開始します。各地の守護大名らが綿織物や仏教の経典を輸入。

琉球王国の成立

3つの勢力。12,13世紀、城(グスク)を根拠地とした豪族が勢力争いがおこります。14世紀には、北山(ほくざん)、中山(なかやま)、南山(なんざん)の3つの勢力が存在しました。

中山王の尚氏が、北山、南山をほろぼして沖縄島を統一しました。首里を都とする琉球王国を建てます。日本や中国、朝鮮半島、東南アジアを船を送り、産物をやりとりする中継貿易が栄えました。

蝦夷地(北海道)

  • アイヌ民族が古くから狩りや、漁、交易を行いました。
  • 交易…14世紀ごろ、津軽(青森県)の十三湊(とさみなと)の豪族の安藤氏がアイヌの民族と交易を行いました。
  • 蝦夷地南部に和人(本州の人々)が館を築いて進出。取引をめぐり、アイヌの人々は圧迫を受けます。15世紀半ば、大首長のコシャマインを中心にアイヌ民族が蜂起。和人勢力が勝利します。

産業の発達

  • 二毛作が広がります。
  • 水車によるかんがい。
  • 肥料…牛馬のふんや堆肥(たいひ)の使用。収穫の増加。
  • 麻、くわ、あい、茶の栽培が広がりました。

手工業の発達

  • 絹織物…西陣(京都市)、博多(福岡市)
  • 陶器、紙、酒、油などの特産物。
  • 鍛冶(かじ)・鋳物業(いものぎょう)…刀や農具を進化させる。
  • 金・銀・砂鉄の採掘も進みます。

商業の発展

定期市が広く各地にうまれ、開かれる日数も増えました。取引には、宋銭や明銭を使用しました。

  • 馬借…物質の陸上輸送をあつかいました。
  • 問丸…運送業者をかねた倉庫業者

金融業の土倉や酒屋、商人や手工業者は、同業者ごとにをつくり、武士や貴族、寺社にお金をおさめて保護を受け、営業を特選しました。港には、港町、寺社の門前には門前町が成長しました。猿楽師、傘はり、魚売り、紙すきなどの職人。このころは、商品をかごなどに入れて売り歩く行商が中心でした。

村の自治

有力な農民を中心にと呼ばれる自治組織をつくります。能魚用水路の建設や管理。燃料の飼料をとる森林の利用や管理などについて村のおきてを定めました。

土一揆

団結を固めた農民たちは、荘園領主や守護大名に年貢を減らす交渉をします。農民が土倉や酒屋などをおそって借金の帳消しをする求める土一揆をおこしました。幕府に徳政令を求めるものもありました。

  • ききん…15世紀には地球規模の寒冷期にあたり何度もききんがおこりました。ききに強い農作物や新たな品種の栽培などが進みました。

応仁の乱

応仁の乱のころから、下の身分の者が実力で、上の身分の者を倒す用上の風潮(下剋上)が広がった。実力のある守護大名の家臣や国人(在地の有力武士)などが守護大名を倒し、勢力の強い守護大名は領国の支配を固めるなどして、戦国大名に成長していった。

第6将軍足利義教(よしのり)の暗殺によって、守護大名間の勢力争いがおこります。第8代足利義政のとき、あとつぎ問題で、細川氏と山名氏が対立しました。

応仁の乱は、1467年に11年にあたる戦乱が始まります。東軍(細川方)、西軍(山名方)に分かれて、京都から全国に広がりました。

国一揆

下剋上の風潮のなかで、近畿地方では国人や地侍の勢力が強まり、彼らは農民らと結んで守護大名に立ち向かうようになった。一国の規模で、国人を中心に農民も加わっておこす一揆を国一揆という。

  • 山城国一揆…山城(京都市)南部で、武士と農民が守護大名を追い払う。
  • 一向一揆…浄土真宗(一向宗)の信仰で結びついた武士や農民が各地で一揆をおこしました。加賀(石川県)では、守護大名をたおし、約100年間自治を行いました。

一向一揆

浄土真宗(一向宗)が急速に勢力を広げ、とくに近畿・東海・北陸地方で力を強めた。一向宗の門徒がつくる寺内町もあらわれた。一向宗の人々が結束して守護大名に対抗し、また、戦国大名にも抵抗した一揆を一向一揆という。

加賀の一向一揆
一向宗を信仰する者(門徒)のなかには、国人も多く含まれていた。国人や農民の組織が強力になると、守護にかわって門徒が国を支配しようとする動きが出てきた。1488年、加賀(石川県)では、一揆軍が守護の富樫氏をほろぼし、その後100年間にわたって自治が行われた。それは、一向宗の僧侶・国人・農民の合議による支配で、一向宗の中心である本願寺の領国のようであった。

戦国大名の誕生

将軍は、京都を中心とするわずかな地方のみを支配。

  • 下剋上…実力あるものが、力のばして上の身分の者に打ち勝って、下剋上の風潮が広がりました。
  • 戦国大名…守護大名の地位をうばって実権をにぎった者、守護大名が成長した者が各地に登場。

応仁の乱以降を、戦国時代といいます。

分国法

戦国大名は、領国内の国人を従え、地侍などを家臣に取り立て、かれらの地位や収入を保障し、勢力を広げていった。また、家臣団と農民を統制して領国の支配を固めるために分国法(家法)を制定した。この分国法は、家臣団の統制や農民の生活にかかわる規定、訴訟にかかわる規定などを主要な内容としていて、領国内の平和を保つために、違反者はきびしく罰せられた。

戦国大名の商業

さらに戦国大名は富国強兵策をとり、検地(田畑の調査) を行い、用水路や堤防を築いて農業をさかんにし、鉱山の開発にも努めた。城を中心につくった城下町には、家臣や商工業者を集め、商工業を保護した。

城下町

戦国大名が領国(りょうごく)につくったのが、城下町です。

  • 城…山に築いていた城を、交通の便のよい平地に築きました。城の周辺に家来を集め、商工業者を呼び寄せ、城下町をつくりました。
  • 分国法…鎖国を統一して支配するため、独自の法を定めました。

用水路の建設、鉱山の開発。交通路の整備、座の廃止。

自治都市

都市が発達して自治組織がつくられます。日明貿易や日朝貿易で栄えた博多(福岡県)や堺(大阪府)、応仁の乱から復興した京都などの都市では、寄合による都市の政治が行われます。

  • 京都…自治をになう町衆と呼ばれる裕福な商工業者によって、祇園祭が行われました。

石見銀山(島根県)では、戦国大名の保護のもと博多の商人が開発。精錬(せいれん)技術の改良で生産量が増加し、海外に輸出しました。精錬(せいれん)技術は佐渡便残(新潟県)などにも、もたらしました。

室町文化

室町文化の特色は、公家の文化と武家の文化の融合です。南北朝時代には、大陸からの文化の影響を受けました。鎌倉時代に栄西から宋からもたらした茶を飲む習慣ができました。茶の産地を当てる会から茶の湯として流行していきます。貴族や武士、僧の集まる会では、華麗な花や豪華な食事となりました。

  • 連歌…人々が集まって和歌の上の句と下の句を次々によむ。
  • 猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)…観阿弥・世阿弥親子が能として大成します。

仏教の進展

  • 浄土真宗…北陸や近畿地方の武士や農民に広まります。
  • 日蓮宗…京都や境の商工業者に広まります。
  • 禅宗…京都と鎌倉の五山と呼ばれる主要寺院を中心に幕府の保護を受けました。禅宗の僧が文芸や外交、貿易に活躍します。

北山文化

  • 金閣…足利義満が京都の北山に建てます。
  • 北山文化…義満の時期の文化です。

武家文化の成長と民衆の広がり

武家文化が成長し、15世紀後半以上、武家をにない手とする簡素で気品のある文化となりました。

  • 書院造…寺院の部屋の様式を武家の住居に取り入れました。
  • 東求堂同仁斎…銀閣と同じ敷地にあり、足利義政の書斎でした。
  • 水墨画…墨一色で自然などを表現し、雪舟が、中国にわたって絵画技法を学び、帰国後、日本の水墨画を完成させます。
  • 庭園…石や木をたくみに配置した庭園で、河原者(かわらもの)とよばれていた人々による。龍安寺(りょうあんじ)(京都市)の石庭(せきてい)など。

東山文化

  • 銀閣…足利義政が京都の東山に建てました。
  • 東山文化…義政の時期の文化。
  • 狂言…能の合間に演じ、民衆の生活や感情をよくあらわしていました。
  • 教育…地方の武士や都市の有力者は、寺で子どもに教育を受けさせていました。
  • 御伽草子…「一寸法師」などの絵入りの物語。
  • 足利学校(栃木県)…戦国大名の上杉氏が保護。日本国内からの人材が集まり、儒学を学びます。さまざまな情報を交換。知識を各地に伝えます。
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