【中学歴史】建武の新政と南北朝時代をわかりやすく解説|後醍醐天皇・足利尊氏の動きが丸わかり!

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鎌倉幕府が滅びた後、日本は大きな政治の転換期を迎えます。後醍醐天皇による「建武の新政」と、足利尊氏との対立から始まる「南北朝時代」は、中学歴史の中でも特に重要なテーマです。この時代の流れをしっかり理解しておくことで、室町時代以降の展開もつかみやすくなります。この記事では、建武の新政がなぜ失敗したのか、南北朝の対立がどう終結したのかを、テスト対策にも役立つ形でわかりやすくまとめました。

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建武の新政と南北朝時代の流れ

南北朝時代図解

建武の新政(1333年-1336年)
  • 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が行った公家主導の政治改革
  • 天皇親政の実現を目指した
  • 荘園整理など改革を試みたが、武士の不満が増大
  • 足利尊氏の反乱によりわずか3年で崩壊
南北朝時代(1336年-1392年)
  • 南朝:後醍醐天皇→後村上天皇(吉野に拠点)
  • 北朝:光明天皇(持明院統、京都に拠点)
  • 足利尊氏が室町幕府を開始(1338年)
  • 楠木正成や新田義貞が南朝側で戦う
  • 観応の擾乱(1350年-1352年)など内乱が続く
  • 足利義満(三代将軍)による南北朝合一(1392年)で約60年に及ぶ動乱が終結
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建武の新政の要点

鎌倉幕府滅亡の翌年(1334年)、後醍醐天皇は年号を「建武」と改め、自ら政治をとった。これを建武の新政という。後醍醐天皇は、公家と武家を統一した天皇中心の政治を理想とし、公家・武家の区別なく役人に任じることを方針とした。しかし、実際は理想に反して、公家を重視した政治が行われた。

  • 中央…摂政・関白が廃止
  • 地方…将軍府や鎌倉将軍府などの機関がおかれた。

武士への恩賞

武士には恩賞が少なく、そのうえ新しい税を課し、それまでの武士社会の慣習を無視した政策を進めたため、政治の混乱がおこり、公家と武士の対立を招いた。こうして後醍醐天皇の政治に不満が高まり、とくに武士は、武家政治の復活を望むようになった。

南朝と北朝の争い

武家政治の復活をねらう足利尊氏は、武士の不満を受けて、1335年、対立する新田義貞の打倒を名目にして兵をあげ、京都に攻めこんだが失敗した。いったん九州にのがれた足利尊氏は、1336年に再び兵をあげ、京都を占領した。そのため、後醍醐天皇は吉野(奈良県) にのがれ、建武の新政は2年余りでくずれた。

南北朝時代の要点

この1336年、後醍醐天皇は吉野に南朝をおこし、新田義貞・北畠親房のほか、地方の武士を味方にして政治を行い、足利尊氏は、京都に光明天皇を立て北朝を開かせた。諸国の武士は、2つの朝廷のどちらかについて争うようになり、約60年にわたって動乱が続いた。この時代を南北朝時代という。やがて、有力な守護が北朝 側につくようになり、南朝の勢力はおとろえていった。

  • 北朝…足利尊氏が、京都に新しい天皇を建てます。
  • 南朝…後醍醐天皇は、吉野(奈良県)にのがれます。

建武の新政と南北朝時代は、日本の政治の流れを大きく変えた出来事です。後醍醐天皇や足利尊氏の動き、それに伴う朝廷の分裂と再統一の経緯をしっかりおさえておくことで、歴史全体の理解も深まります。テスト前の復習や、苦手克服にぜひ役立ててください。

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