中学歴史「建武の新政」

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中学歴史「建武の新政」についてまとめています。1334年、後醍醐天皇は建武の新政を始めました。新政の終了後は、南朝と北朝は約60年にわたって争いを続けた。そのあたりについて、詳しく記述しています。それでは、中学歴史「建武の新政」です。

建武の新政

鎌倉幕府滅亡の翌年(1334年)、後醍醐天皇は年号を「建武」と改め、自ら政治をとった。これを建武の新政という。後醍醐天皇は、公家と武家を統一した天皇中心の政治を 理想とし、公家・武家の区別なく役人に任じることを方針とした。しかし、実際は理想に反して、公家を重視した政治が行われた。

  • 中央…摂政・関白が廃止
  • 地方…将軍府や鎌倉将軍府などの機関がおかれた。

武士には恩賞が少なく、そのうえ新しい税を課し、それまでの武士社会の慣習を無視した政策を進めたため、政治の混乱がおこり、公家と武士の対立を招いた。こうして後醍醐天皇の政治に不満が高まり、とくに武士は、武家政治の復活を望むようになった。

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南朝と北朝の争い

武家政治の復活をねらう足利尊氏は、武士の不満を受けて、1335年、対立する新田義貞の 打倒を名目にして兵をあげ、京都に攻めこんだが失敗した。いったん九州にのがれた足利尊氏は、翌年(1336年)に再び兵をあげ、京都を占領した。そのため、後醍醐天皇は吉野(奈良県) にのがれ、建武の新政は2年余りでくずれた。

この年、後醍醐天皇は吉野に南朝をおこし、新田義貞・北畠親房のほか、地方の武士を味方にして政治を行い、足利尊氏は、京都に光明天皇を立て北朝を開かせた。諸国の武士は、2つの朝廷のどちらかについて争うようになり、約60年にわたって動乱が続いた。この時代を南北朝時代という。やがて、有力な守護が北朝 側につくようになり、南朝の勢力はおとろえていった。

まとめ

建武の新政は、後醍醐天皇による天皇中心の政治です。後醍醐天皇は、武家の政治を否定し、公家(貴族)重視の政策を続けました。これは、武士の間に不満が高まりました。

  • 後醍醐天皇…政治の実権を朝廷にもどすため倒幕を計画しました。失敗して隠岐(島根県)に流されます。
  • 足利尊氏…武家政治の復活を呼びかけ挙兵。建武の新政は、2年ほどで崩れました。
  • 北朝…足利尊氏が、京都に新しい天皇を建てます。
  • 南朝…後醍醐天皇は、吉野(奈良県)にのがれます。

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