中学歴史「明治時代」についてまとめています。明治維新と文明開化に関して、新政府の成立、明治維新の三大改革、新しい思想、岩倉使節団などにもふれています。
明治新政府の成立
明治維新は、新政府の改革とそれに伴う社会の動きです。
- 五箇条の御誓文…天皇が出した新しい政治の基本方針
- 江戸を東京と改称し新しい首都にし、年号を慶応から明治にしました。
中央集権国家
藩から県へ中央集権国家を目指しました。
- 太政官…政治の権限を集中させる。
- 版籍奉還…藩に土地と人民を政府へ返させる。
- 廃藩置県…藩を廃止して県を置き、各県には県令(のちの県知事)を大阪、京都、東京の3府には府知事を中央から派遣。
- 藩閥政治…倒幕の中心であった公家、薩摩、長州、土佐、肥前の4藩出身者が実権を握る。
身分制度の廃止
- 四民平等…天皇一族の皇族以外、公家や大名の華族、武士の士族、百姓・町人の平民を平等とする。平民に苗字を認められ、住む場所や職業の制限もなくなる。「ちょんまげ」や帯刀が禁止される。
- 解放令…えた身分、ひにん身分の呼び名を廃止し、平民に。多くの面で差別が残る。
明治維新の三大改革
富国強兵は、欧米に対抗するため、経済を発展させて国力をつけ軍隊を強化。学生、兵制、税制の三つの改革。近代化の基礎となる。
学制
小学校から大学までの学校制度。6歳以上の男女すべてに小学校教育を受けさせる。学校の建設費や授業料は地元で負担。当初は就学率が低かった。
徴兵令
満二十歳に達した男子に兵役を義務付ける。免除規定はあった。1873(明治6)年、富国強兵を目標とする政府は、近代的軍隊の設立のために徴兵令を公布した。国民皆兵が原則で、満20歳以上の成人男子に3年間の兵役を義務づけた。警察のしくみもととのえられ、1874年には東京に警視庁が設置された。
徴兵令では戸主・役人・上級学校進学者・代人料270円以上を納めた者などは兵役を免除された。結果、兵役は平民の二男・三男が中心につき「血税一揆」とよばれた徴兵反対一揆がおこった。
地租改正
土地に対する税率は全国統一の近代的な税となり、政府の歳入(年間の収入)の大半を占め財政を安定させた。年貢や大商人からの御用金にたよっていた政府の収入は不安定であった。これは、近代国家建設のための諸改革を行う障害となった。そこで、政府は収入を安定させるため地租改正を行った。
- 土地の所有者と価格地価を定め地券を発行する。
- 課税の基準を収穫高から地価に変更する。
- 税率は地価の3%で土地の所有者が現金を納める。
地租改正により、政府の収入は安定した。自作農は土地の所有権を認められ、売買も自由になった。いっぽう、小作農が地主におさめる小 作料は米などの現物で、その量は収穫高の30~50%にもなった。こうして農村の貧富の差は拡大し、各地で地租改正反対一揆が続発した。このため、政府は1877 (明治10)年に地租を2.5%に引き下げた。
近代的な国際関係
沖縄県の設置をします。琉球王国は、帰属を巡り清(中国)との対立。日本の領土として琉球藩を置きます。
- 台湾出兵…琉球の漁民が台湾の先住民に殺される事件が発生。台湾に出兵し、清から賠償金を得る。
- 琉球処分…軍隊の力を背景に沖縄県を設置。
清と朝鮮国との関係
- 清…対等な立場の日清修好条規を結ぶ。
- 朝鮮国…武力で開国を迫る。征韓論が高まりますが、岩倉具視や大久保利通らが反対。西郷隆盛、板垣退助らが政府を去る。(明治六年の政変)。軍艦を派遣して、江華島事件を引き起こし、日本に有利な不平等条約の日朝修好条規を結んで開国させます。
欧米との関係
- ロシアと樺太千島交換条約を結ぶ。
- 小笠原諸島の領有を各国に通告する。
- 近代化を欧米諸国に認めさせるため、欧米化政策をすすめ、法律の整備に力を注ぎました。
板垣退助らは大久保利通らと政策を専制政治であると批判。国民が政治に参加できる道を開くべきだと主張し、民撰議員院設立の建白書を提出し国会の開設を求めました。板垣退助は、高知で立志社を結成し、運動を進めました。 各地で、新政府に不満を持つ士族が武力蜂起。鹿児島の士族らが、西郷隆盛を中心に西南戦争をおこす。徴兵制で集められた政府軍に鎮圧される。藩閥政治への批判は、言論によるものが中心となる。 自由民権運動は、国民が政治に参加する権利の確立を目指しました。西南戦争後、言論による政府批判が強まります。大阪で全国の代表が集まって、国会期成同盟を形成し、国会の開設を求めました。多くの憲法草案が民間で作成され、植木枝盛や中江兆民はフランスの人権思想を紹介しました。 大隈重信は、憲法の即時制定と国会の早期開設を主張しました。開拓者の施設や財産の払い下げをめぐる事件で民権派は政府を攻撃。伊藤博文は10年後に国会を開くこと約束。(国会開設の勅諭)。大隈重信を政府から追い出します。 国会開設に備え、板垣退助が自由党を、大隈重信が立憲改進党を結成。 憲法の準備が行われます。政府の弾圧と秩父事件などの民権派が関係した激化事件により自由民権運動は停滞。 大日本帝国憲法は、1889年2月11日天皇が国民与える形で発布。天皇が国の元首として統治すると定められ、帝国議会の召集、解散、軍隊の指揮、条約の締結、戦争を始めることなどが、天皇の権限として明記されました。 忠君愛国(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、教育の柱になり、国民の精神的・道徳的なよりどころとされた。 進む世界の一体化で、資本主義が発展し、イギリス、ドイツ、アメリカ、ロシア、フランスなど経済力などを背景に世界に進出。また、蒸気船や鉄道の発達で人や商品の動き、情報の伝達が活発化なる。北アメリカと東アジアを結ぶ太平洋横断航路の開設、アメリカで大陸横断鉄道の完成、地中海とインド洋を結ぶスエズ運河開通など世界を一周する交通ルートができる。 欧米の文化が取り入れられ、都市を中心として伝統的な生活が変化し始めたこと。 近代思想を紹介したのが、福沢諭吉の「学問のすすめ」(人間の平等と民主主義)、中江兆民によるルソーの思想の紹介。自由民権運動とつながる。キリスト教の禁止が解かれ、信仰の自由が認められる。日刊新聞や雑誌の発行で、新しい思想が広まる上で大きな役割を果たす。福沢諭吉の慶應義塾に、新島襄の同志社など私立学校の設立。 右大臣の岩倉具視を全権大使とする岩倉使節団を欧米に派遣。木戸孝允・大久保利通など政府の有力者のほぼ半数が参加。目的は、不平等条約の改正でしたが、近代的な法制度が整っていないなどの理由で不成功に終わる。2年近くにわたって欧米の進んだ政治や産業、社会の情勢を体験する。帰国後日本の近代化を推し進める。 殖産興業は、近代的な産業を育てる政策。鉄道の開通や蒸気船の運行などの交通の整備。郵便制度や電子網の整備・富岡製糸場などの官営模範工場の建設。万国博覧会の参加(ジャポニズム)。 蝦夷地を北海道と改め、開拓使を置き統治を強化し、開拓事業。 アメリカ人のフェノノサが岡倉天心とともに、日本の美術の復興に努める。また、日本画の横山大観(無我)、狩野芳崖、彫刻の高村光雲が近代的な日本の美術を切り開きました、 黒田清輝が印象派の画風を紹介し、「湖畔」などを描きました。荻原守衛は欧米の近代的な彫刻を制作。滝廉太郎が「荒城の月」や「花」を作曲。 大日本帝国憲法が発布され、天皇が国の元首となりました。立憲制国家の成立し、帝国議会では、貴族院と衆議院の二院制となりました。1889年2月11日に発布されました。 天皇の政治を助けることが役割であり、各大臣は天皇に対して個々に責任を負うとされたため、議会に対する責任は不明確でした。 1890(明治23)年に行われた第1回衆議院議員選挙(総選挙)で選挙権があたえられたのは、地租などの直接国税を15円(年間)以上納める満25歳以上の男子で、全人口の1.1%にすぎなかった。 1890年11月に開かれた。総選挙の結果、自由民権運動を指導した自由党や立憲改進党など民党(野党)の議員が過半数を占めた。そのため、軍備拡張問題や地租軽減などをめぐって藩閥政府(内閣)と民党は、するどく対立した。 1892年の第2回総選挙では、政府は、民党の進出をおさえるため、警官や暴力団などを使い選挙活動を妨害した(選挙干渉)。しかし選挙の結果、またも民党が勝ち、藩閥政府を苦しめた。 政党政治が発達したわけ 1898(明治31)年、自由党と進歩党(もとの立憲改進党)が合同して憲政党を結成した。これをもとに、首相に大隈重信、内務大臣に板垣退助が就任し、形式的には日本初の政党内閣がつくられた。 殖産興業とは、明治新政府が欧米諸国の進んだ経済制度・設備・機械・技術などを取り入れて、近代産業の保護・育成をはかった政策である。新政府の成立当初は、まだ工場制手工業(マニュファクチュア)の段階で、民間には大規模な近代工業をおこす力がなかった。 政府は欧米の先進国に追いつこうとして、外国から機械を買い入れ、外国人技術者を招き、重要鉱山を直接経営するとともに、官営の製糸・紡績工場や軍事工場などの官営工場を設立して、近代工業の育成をはかった。1872年に開設された富岡製糸場(群馬県)はフランス人技師の指導のもとで、士族(旧武士)の子女を集めて大規模な生糸の生産を行った。ここで技術を習得した工女(女子労働者)たちは、各地につくられた民間の製糸工場で技術を指導する役割をはたした。 政府は1877年8月~11月に、上野公園(東京都台東区)内で第1回内国勧業博覧会を開き、新しい技術の紹介や普及をはかり、民間の産業の発達に大きな刺激をあたえた。 江戸時代の藩札や明治の初めに発行された太政官札などが流通し、通貨は混乱していた。そこで政府は、1871年、円・銭・厘の10進法による新しい貨幣制度をつくった。また、1872年には、殖産興業をおし進める資金を得ることや、不換紙幣(金・銀などの正貨と交換できない)の整理を目的に金融制度整備し、渋沢栄一らの意見を取り入れて 行銀行条例を定めた。これにもとづいて、第一国立銀行をはじめとする民間経営の国立銀行がつくられた。これらの国立銀行は、1882年に日本銀行が開業して銀行券の発行業務をまかされると、1899年までに普通銀行となった。 1871年に郵便制度がつくられ、1872年には鉄道が開通した。政府は通信機関の整備をはかり、1869年、東京・横浜間に最初の電信を開通させた。1871年には長崎と上海(中国)の間に海底電線が開通し、海外との電信も可能になった。こうして、1880年代初めまでに全国の電信網がほぼ完成し、1849年には東京・横浜間で電話交換の業務も始まった。 1871年には前島密の努力で、これまでの飛脚がに代わってつくられた。郵便はまず、東京・京都・大阪で始められたが、1873年には全国均一料金で手紙・はがきが出せるようになり、全国の主要な郵便網がほぼ完成した。1877年には、万国郵便連合に加盟した。 交通の面でも整備がはかられ、1872年新橋 (東京都)・横浜間に初めて鉄道が開通し、1874年に大阪・神戸間、1877年に大阪・京都間が開通した。1889年には東海道線(東京・神戸間, 全長約590km)が全通した。海運業の発達もめざましく、沿岸航路で汽船の運航が行われるようになり、物資の輸送が活発になった。 明治政府が改正をめざした不平等条約とは、1858年に江戸幕府が諸外国と結んだ日米修好通商条約で、日本が相手国に領事裁判権を認め、日本には関税自主権がないという、不平等な内容だった。1871年、岩倉使節団を欧米に派遣して条約改正の予備交渉を行ったが、相手国の同意は得られなかった。 その後、外務卿(のちに外務大臣)の井上馨は、日本が欧米同様の文明国であることを示し、改正交渉を有利に進めようとして、鹿鳴館で舞踏会を開くなど極端な欧化政策を行ったが、国民の強い反発を受けて失敗した。また、井上馨・大隈重信の両外務大臣は外国人裁判官を日本の裁判に参加させる案を立てたが、これも国民や政府内の反対で失敗した。1886年にノルマントン号事件がおこると、これをきっかけに国民の間で、領事裁判権の撤廃を求める声が高まった。 <その他の外国との事件> イギリスは、日本が大日本帝国憲法を発布し、帝国議会を開き、東アジアで国力を増してくると、日本の国際的な地位を重要視するようになってきた。また、ロシアの南下にそなえて、日本と接近をはかる必要を感じていた。その結果、日清戦争直前の1894年、外務大臣陸奥宗光がイギリスと日英通商航海条約を結んで、領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部の回復に成功した。 また、日露戦争後の1911年には、外務大臣小村寿太郎がアメリカ合衆国と日米通商航海条約を結び、関税自主権を回復した。政府は、通商条約を結んでいた他の国々とも同様の条約を結び、不平等条約の改正を完全に達成した。 伊藤博文は、1900(明治33)年に立憲政友会をつくり、議会で多数を占め内閣を組織した。 1885年に、内閣制度を創設し、初代内閣総理大臣となる。この間に、大日本帝国憲法の草案。 大日本帝国憲法は、1889年2月11日天皇が国民与える形で発布。天皇が国の元首として統治すると定められ、帝国議会の召集、解散、軍隊の指揮、条約の締結、戦争を始めることなどが、天皇の権限として明記されました。日本は、アジアで初めての憲法と議会をそなえた立憲君主国となりました。 日本は韓国を保護国として、外交権を奪いました、韓国総督府を置き、伊藤博文が初代統監になりました。 南満州鉄道株式会社は、満州での鉄道利権をもとに日本が設立しました。鉄道、鉄鋼の開発、製鐵所の建設など。満州への進出の機会をうかがっていたアメリカと対立。 産業の発展では、軽工業の発展があり、1880年代後半から紡績業、製糸業などが発達。産業革命が始まりました。 産業の発展とともに重化学工業製品の輸入が増加。輸出を上回りました。 このころ、日本初の社会主義政党である社会民主党が形成され、天皇の暗殺を計画をしっとして、幸徳秋水ら12名の社会主義者が処刑される大逆事件が起こる。 江戸時代、琉球王国は日本と中国(清)の両方に属している(両属)関係にありました。 政府は琉球の両属関係を解消して日本に統合しようとしました。 1879年、政府は軍隊を送って土域(首里城)を占領し、琉球藩を廃して沖縄県を設置しました。 琉球藩の設置から沖縄県の設置にいたる。政府が実行した政策を琉球処分といいます。士族の反乱
自由民権運動の高まり
政党の結成
立憲制国家の成立
大日本帝国憲法
教育勅語
帝国議会の開設
世界とつながる日本と文明開化
文明開化
新しい思想
岩倉使節団
殖産興業と日本の関心
北海道の開拓とアイヌの人々
明治文化
新しい文学
学校教育の普及
大日本帝国憲法の発布
天皇の権限(天皇大権)
内閣の役割
帝国議会
国家体制の整備
帝国議会の成立
第1回帝国議会(国会)
政府の干渉
政党政治の発達の理由
隈板内閣の成立
伊藤博文は、1900(明治33)年に立憲政友会をつくり、議会で多数を占め内閣を組織した。殖産興業とは
官営工場の設立
貨幣制度や金融機関の整備
明治時代の通信
明治時代の交通
不平等条約改正
鹿鳴館での舞踏会
ノルマントン号事件
1886年、イギリス船ノルマントン号が紀州(和歌山県)沖で沈没し、イギリス人船員は全員ボートで脱出したが、日本人乗客は全員死亡という事件がおこった。これを裁いたイギリス領事は、はじめ過失責任なしとして船長を無罪にしたため、国民の間に領事裁判権の撤廃を求める声が高まった。船長はのちに、禁固3か月という軽い刑を言いわたされた。条約改正の達成
伊藤博文
立憲政友会を組織
初代内閣総理大臣
大日本帝国憲法の草案
韓国の植民地化
南満州鉄道
中華民国の成立
産業革命の進展
資本家と労働者
地主と小作人
沖縄県の設置
琉球処分
沖縄県の設置
琉球処分
このころの年号整理
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