中学歴史「近代市民革命の要点まとめノート」

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中学歴史「近代市民革命と産業革命」についてまとめています。近代市民革命と産業革命に関して、それぞれの革命、アメリカの独立、アヘン戦争などにふれています。それでは、中学歴史「近代市民革命と産業革命」です。

近代市民革命

ヨーロッパの繁栄と啓蒙思想についてですが、オランダに対抗し、フランス、イギリスが産業を育成。東インド会社を先頭に海外進出。

市民革命
市民階級が絶対王政を倒した革命を、市民革命といいます。 絶対王政のもとでは、国王は大商人と結んで産業を統制し、議会を無視して重税をかけ、信仰の自由も認めていませんした。そこで、豊かな農民や工場経営者らは、都市の新興の 商工業者と結んで、議会で力をのばして対抗していきました。市民階級が、身分制にもとづく社会を改め、自由と平等を求めて絶対王政を倒した革命を市民革命とよんでいます。
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啓蒙思想

市民社会が生まれ、近代の世界に大きな影響を及ぼします。イギリスの革命ののち、国家や社会のしくみについても自由な考えがでてきた。教会や国王の支配に苦しんでいた人々に、新しい社会の到来を合理的にわかりやすく説明し、自覚させるもので、啓蒙思想と呼ばれます。アメリカの独立やフランス革命に大きな影響を与えました。

  • ロック…社会契約説と抵抗権を訴えました。
  • モンテスキュー…法の精神と三権分立を説きました。
  • ルソー…社会契約説と人民主権を主張しました。
ロック
イギリスの思想家ロックは著書「統治二論(市民政府二論)」で、すべての人間は生命・自由・財産という自然権をもっていて、この自然権を守るため、人々に社会契約によって国家をつくったと考え、人民の代表者による議会政治を説きました。

ルソー
ロックの考えをさらに発展させ、徹底した人民主権(国民主権)論を主張したのがフランスの思想家ルソーです。

モンテスキュー
権力分立の考えはロックが説きました。ロックは立法権と執行権(行政権)の分立と、立法権の執行権に対する優越を説きました。この主張を受けつぎ、三権分立論に発展させたのが、フランスの思想家モンテスキューです。

イギリスの革命

国王の王権神授説(国王の権限は神から与えられたもので国民は従わない)よる王政。これには、議会が反対し内戦へ。クロムウェルの指導により共和制の革命が実現しました。これをピューリタン革命といいます。しかし、共和制は、長くは続かず、1688年無血の名誉革命が起こりました。

ピューリタン革命

国王の専制に反対する革命が起こりました。1649年、議会側はクロムウェルの指導で絶対王政を倒した。 17世紀前半のイギリスでは、国王がピューリタン(清教徒)を圧迫して専制政治を行っていた。議会は市民の権利を守るために「権利の請願」を国王に認めさせていました。しかし、その後、国王はこれを無視しました。以後、国王と議会の対立がはげしくなり、1642年、内乱が始まりました。

議会側はクロムウェルを 指導者として農民や市民を中心に戦い、国王の軍隊を破った。1649年、議会側は国王を処刑して絶対王政を倒し、共和政を始めました。これをピューリタン(清教徒)革命といいます。 クロムウェルは、内政ではきびしい独裁政治を行ったため、国民の不満が高まり、死後の1660年に王政が復活します。

  • 王権神授説…国王の権限は神からあたえられた。 絶対のものという考え方で、国王の専制政治のよりどころとなる考え方です。
  • 革命…1640年、議会が国王の専制政治に反対し、内戦となりました。議会にピューリタンが多かったのでピューリタン革命といいます。
  • 共和制の成立…議会派が国王を処刑し、共和制(君主を持たない政治)となりましたが、政治が独裁的になり、王政が復活しました。
立憲君主制
議会を尊重するを王を立てて、権利章典を制定。立憲君主制と議会政治の確立。18世紀後半に経済力に支えられた強力な海軍を持ち、植民地を拡大し、ヨーロッパの最強国となりました。
ピューリタン(清教徒)
イギリスでのプロテスタント (新教徒)の一派で、カルヴァン派の教えを信じる人々を、清教徒といい、イギリス国教会に反対した新興の市民階級に信者が多かくいました。仲には、信仰の自由を求めて北アメリカ植民地に移住する者もいました。
権利の請願
1628年の「権利の請願」では国王(チャールズ1世)に対して、 課税には議会の同意が必要であることや、法律によらずに人々を逮捕・投獄しないことなどを認めさせました。

名誉革命

専制政治復活をねらった国王と議会が対立しました。新しく即位した国王は、再び専制政治を始めたため、議 会と国王の対立が続きました。そこで議会は、1688年に国王を追放し、オランダから新国王をむかます。この革命は流血なしで行われたため、名誉革命とよばれました。この国王は議会の立場を重んじ、国民の自由と権利を守るために、議会がつくった「権利の宣言」を認め、1689年に「権利の章典」として発布。

この結果、国民の自由と権利が保障され、議会の地位が確立。18世紀の初めには、議会で多数をしめる政党から首相が出て内閣をつくる責任内閣制が確立し 、「国王は君臨すれども統治せず」といわれました。

  • 革命…議会が新しい国王をむかえ、前の王は亡命しました。
  • 「権利章典」(1689年)…国王は議会の承認なしに権力を行使できないとされました。立憲君主制が成立し、議会政治の基礎となりました。
  • 海外進出…イギリスは海外の植民地を拡大しました。

アメリカ合衆国の独立

植民地時代において、植民地の人々は、しだいにイギリス本国の植民地政策に不満を高めていきます。1620年、イギリスで国王の圧迫を受けていたピューリタン(清教徒)たちは、メイフラワー号で北アメリカにわたってきました。これ以後、イギリスから次々に人々が移住し、先住民 の土地をうばって開拓を進め、アフリカから連れてきた黒人奴隷を使って、タバコや綿花を栽培ししました。

18世紀の半ばまでに、北アメリカ東部沿岸に13の植民地をつくりました。それぞれの植民地は議会をもち、自治を行っていました。 一方で、イギリス本国は、本国の産業を保護し、植民地との貿易の利益を守るため、植民地が外国と貿易することを制限し、課税を強化しました。これに対して、植民地は本国の議会に代表を送ることもできなかったため、本国の政策に不満を高め、「代表なければ課税なし」として、独立を求める動きとなっていきました。

ボストンの茶会事件
イギリス本国が、13の植民地での茶の販売を東インド会社に独占させる「茶法」を制定する と、1773年、これに反対する 人々が、ボストン港に入港。東インド会社の船をおそい、 積み荷の茶箱を海に投げ捨てた。 この事件が、直接のアメリカ独立戦争のきっかけとなりましたりました。

アメリカ独立戦争

1773年にボストンの茶会事件がおこると、本国と植民地の対立がいっそう深まり、1775年に13の植民地の人々は ワシントンを総司令官として独立戦争を始めました。そして、1976年、植民地の人々は、人間の平等・自由・幸福の追求、圧政への抵抗権などをもりこんだ「独立宣言」を発表しました。これは、イギリスの啓蒙思想家ロックの影響を強く受けています。

独立軍は苦戦したが、当時イギリスと対立していたフランスやスペインなどの援助を受けて、1783年、本国軍を破って独立。1787年には、人民主権をもりこんだ世界初の近代的な成文憲法といわれるアメリカ合衆国憲法を制定。

北アメリカの植民地に対し、イギリス本国が新しい税を課し、反対運動を弾圧。独立宣言を発表。フランスなどの支援されて独立戦争に勝利ました。人民主権、連邦制、三権分立などを柱とする合衆国憲法を定めました。初代大統領にワシントンが就任。

アメリカ合衆国憲法

憲法では、議会(立法)・政府(行政)・裁判所(司法)が権力を分担する三権分立制を採用し、州の自治を認め、その上にアメリカ全体の政府や議会、最高裁判所がある連邦制をとった。また、連邦政府の長を大統領として、1789年、初代大統領にワシントンを選出。アメリカの独立は、商工業者らが主体となった市民革命であり、アメリカ独立革命ともいう。

フランス革命

フランス国王が絶対的な権力を握り(絶対王政)、べルサイユ宮殿を建設・政治と文化の中心としました。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)は免税の特権。人口の90%を占める第三身分(平民)だけが税を負担する旧体制。さらに、イギリスと植民地をめぐる戦争をし、慢性的な財政赤字へ。一方で、農民は重税に苦しみ、市民階級は自由な経済活動や政治への参加ができず、社会への批判が高まっていました。

そういう背景の中、市民階級の間には古い社会体制を批判し、人間の解放をめざす啓蒙思想が広まっていきました。またアメリカの独立も、フランスの市民階級に大きな刺激をあたえました。

➊ルイ14世(1638~1715)…絶対的な権力を持ちました。「炭は国家なり」(わたし自身が国家そのものである)といったと伝えられます。
➋絶対王政…官僚制と常備軍に支えられ、王が強大な権力をにぎった政治制度で、王権神授説ではこうした王政は正しいとされました。

国王の国民議会への弾圧に対して、1789年7月14日パリの民衆がバスチーユ牢獄をおそいフランス革命が始まりました。国民議会は、1789年8月に「人権宣言」を発表して、自由・平等・人民主権などを宣言し、1791年にはフランスで最初の憲法が制定され、議会政治が始まりました。 1792年には、フランス議会(国民公会)は王政を廃止して第一共和政をしき、貴族らの土地を没収して農民に分けあたえ、1793年には、国王夫妻を処刑しました。

人権宣言

1789年、国民議会が発表した人権宣言は、市民革命の原理となりました。

  • 封建身分の廃止。
  • 自由、平等、人民主権、私有財産の不可侵。
  • 身分や人種によらない普遍的な人間の権利。

共和制の成立

1792年に王政が廃止され共和制が成立しました。

  • 外国の干渉…1793年、フランス革命の波及をおそれるイギリス、オーストリアなどが革命に干渉し、戦争が始まりました。
  • 国王の処刑…1793年、国王が処刑され、政治は混乱しました。

フランス革命後

フランスでは諸外国の軍隊による干渉や革命による社会の混乱などで、不安定な政治情勢が続きました。 国民に支持され、クーデターで政権をにぎった軍人のナポレオンは、1804年に皇帝となり、ヨーロッパの大部分を征取しました。そして,、自由・平等などの革命の成果を民法典(ナポレオン法典)に定めて各地に広め、民族の自覚を高めました。フランス革命の理念はヨーロッパ諸国にとどまらず、その影響は世界中に及んでいきました。

ナポレオン

革命派の軍人として活躍したナポレオン(1769~1821) が、不安定な政情の中で台頭し、皇帝の位につきました。ヨーロッパを支配し。民法典(ナポレオン法典)を制定し、革命の理念を広げました。ナポレオン軍の敗退。その後、ナポレオンは地中海のエルバ島に流されます。1815年に、一時皇帝に復帰しますが再び敗れ、大西洋の孤島のセントヘレナに流されて、6年後に死亡。

  • 対外政策…武力によって、ヨーロッパ大陸をほぼ征服しました。
  • 民法典…経済活動の自由、家族の尊重を定めました。
  • 失脚…ロシア遠征に失敗(1812年)したナポレオンは,諸国の反撃に合って、1814年に退位し、翌年セント・ヘレナ島に流されました。

産業革命

産業改革で、技術の向上による産業と社会の仕組みが変化。イギリスでは、綿工業の技術革新が続き、蒸気機関で動く機械が実用化されて大量生産が始まりました。製鉄、機械、造船、武器などの産業が発達。蒸気機関車の走る鉄道により交通の便が良くなりました。イギリスは、「世界の工場」と呼ばれました。

資本主義の社会

  • 資本主義…資本家が経営者として、賃金をもらって働く労働者を雇う仕組み。貧富の差や労働災害をめぐる社会問題が発生し、労働者は職業と生活を守るために労働組合を結成。
  • 社会主義…資本主義を批判し、私的財産から公的財産を目指す考え、マルクスなど著作が労働者や知識人に広まりました。

19世紀の欧米諸国

  • イギリス…万国博覧会の開催。二大政党政治や教育制度の充実。世界各地に外交官を派遣し、自由主義を広めました。
  • ドイツ…鉄血宰相と呼ばれるビスマルクの下で富国強兵。帝国として統一。重化学工業や医学が発達。
  • アメリカ…自由貿易は奴隷制をめぐって、南北戦争が起こります。リンカーン大統領の指導のもと、合衆国の統一と奴隷の解放を図る北国が勝利。大陸横断鉄道の建設。

ヨーロッパのアジア侵略

イギリスのアジア貿易

欧米は、茶や絹、陶磁器などの物産と市場の開放をアジアに求めました。イギリスはインド・中国(清)と三角貿易を行いました。

アヘン戦争

アヘン戦争は、清がアヘンを取り締まるとイギリスは軍艦を送り、清を降伏させました。

  • 南京条約…イギリスは、上海など5港を開港を手に入れました。清の関税自主権を認めず、イギリスが領事裁判権持つ不平等条約。
  • 太平天国の乱…アヘンの戦争後、重税での生活の苦しくなった農民が、洪秀全を中心としておこした反乱。太平帝国は、土地を平等に分け、貧富の差のない社会を作ろうとしました。

インドの植民地化

イギリスの安い綿製品が流入し、インドの綿産業は打撃を受けます。イギリス東インド会社に雇われていたインド兵の反乱が各地に広まります。これが、インド大反乱です。鎮圧したイギリスは、インドを植民地としました。

ロシアのアジア進出

皇帝の専制政治が続きました。南下政策をとり、シベリア、沿海州に進出。清や日本と衝突。近代化のため、農奴を解放し、フランスの援助でシベリア鉄道を建設。急速に成長しました。

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