中学歴史「大正時代」についてまとめています。
大正時代の要点(大まかな流れ)
第一次世界大戦(1914年-1918年)
ワシントン会議(1921年)
大正デモクラシー(1912年-1926年)
大正デモクラシーと新しい文化に関して、第一次護憲運動、社会運動、普通選挙法などにもふれています。第一次世界大戦が終わると、輸出や国内の需要が減少して不景気になり、企業の倒産や失業者が増加した。こうした社会状況のなかで、大正デモクラシーの風潮が広まり、ロシア革命の影響もあって、労働運動や農民運動が活発になっていった。
第一次世界大戦
列強の利害と民族、宗教の対立がからまって紛争が絶えない、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれたバルカン半島あった。
1914年に、オーストリア皇太子夫妻がセルビア人に暗殺されたサラエボ事件をきっかけに、同盟国と連合国が開戦。総力戦となり、新兵器(戦車や飛行機、毒ガスなど)が使われ、大きな被害。
- 三国同盟…ドイツ・オーストリア・イタリア
- 三国協商…イギリス・フランス・ロシア
日本の参戦
日本は日英同盟により連合国側に立って参戦。
ロシア革命
1917年、民衆の不満が高まりが、代表会議(ソビエト)が成立。レーニンは、ロシア革命をお越し世界初の社会主義政権が誕生。
シベリア出兵
ロシア革命の影響をおそれた列強は、干渉戦争を起こし、日本・アメリカ・イギリスなどはシベリアに出兵した。
ソ連の成立
1922年、ソビエト社会主義共和国連邦が成立。土地、工場などの生産手段を国有化し、経済活動を国家が統制した。
国際協調の高まり
1918年に、ドイツの降伏で第一次世界大戦が終了。
- 講和会議…1919年、パリ講和会議が開かれ、ベルサイユ条約が結ばれて、敗戦国ドイツは植民地を失い、巨額の賠償金を課せられた。
- 国際連盟…民族自決を唱えたアメリカ大統領ウィルソンの提案で、1920年に成立した世界平和組織。アメリカは議会の反対で不参加。
ワシントン会議(1921年から1922年)で海軍の軍備制限、中牧の主権尊重と粒度保全などが決められ、四カ国条約で日英同盟は解消。
大衆の時代
1919年に、ドイツのワイマール憲法で国民主権、男女普通選挙権、労働者の団結権などが定められた。
大戦景気と米騒動
- 大戦景気…綿織物など輸出が増加。欧米から輸入が途絶えため、重工業が発展する。シベリア出兵をきっかけとした米の買い占めにより、米の値段が大幅に上昇。富山県の漁村から、米の安売りを要求して米屋に押しかける米騒動が起こります。のちに全国に広がり、政府は軍隊を出動させて鎮圧。
政党内閣の成立
米騒動により、寺内正毅内閣は退陣。衆議院第一党の立憲政友会の総裁の原敬が首相に就任。陸軍、海軍、外務の三大臣以外がすべて立憲政友会の党員で組織された本格的な政党内閣が成立しました、
アジアの民族運動
- 中国の反日運動…日本は、1915年に二十一か条の要求を中国に認めさせた。1919年、反日・反帝国主義の五・四運動が起こった。
- 朝鮮の独立運動…1919年、日本の植民地支配からの独立を求める三・一独立運動が朝鮮全土に広がり、朝鮮総督府は武力で鎮圧した。
- インドの民族運動…イギリスの植民地支配に対して、ガンディーが非暴力・不服従を唱え、完全自治を求める運動が高まった。
辛亥革命
中国では、列強諸国による侵略に対抗する動きが強まり、腐敗した清朝を倒して漢民族の独立を勝ちとり、近代国家をつくろうとする革命運動がさかんになっていた。1905年、東京で孫文(広州での決起に失敗し、日本に亡命)を総理とする中国同盟会が結ばれ、辛亥革命運動の中心勢力となった。
1911年7月、清政府が外国から資本を借りて民間鉄道を国有化しようしたことが発端となって、四川省で民衆の反政府運動がおこった。
こうした民衆の動きに応じて、1911年10月、中国南部の長江中流域の信(現在の武漢)で軍隊が反乱をおこし、ここに辛亥革命が始まった。革命運動はまたたく間に全国に広がり、24省のうち14省 が清朝からの独立を宣言した。
孫文は、三民主義を唱え、民族の独立と近代国家建設を目指す革命運動の中心となりました。民族主義・民権主義・民生主義の三民主義を唱えて革命運動を指導し、のちに「中国革命の父」とよばれた。
中華民国の成立
1912年1月1日、革命軍は南京を首都として中華民国の成立を宣言し、孫文を臨時大総統にむかえた。アジアで最初の共和国であった。
これに対して清政府は、軍閥の袁世凱に革命政府を討つように命じたが、袁世凱は孫文と手を結んで、1912年2月 清朝最後の皇帝の宣統帝(薄儀)に退位をせまって、300年ほど続いた清朝を滅ぼした。
その後、袁世凱は、孫文を退けて中華民国大総統とな自都を北京に移して革命派を弾圧し、議会を無視して独裁的な政治を展開した。
袁世凱の死後、各地の軍閥が独立した地方政権のようになり、広州に本拠地をおいた孫文も1919年に中国国民党を結成して軍閥に対抗した。
五・四運動
中国は、パリ講和会議で二十一か条の要求(内容については、次の段落)の取り消しを求めたが無視されたため、1919年5月4日、北京大学の学生らが講和条約に反対し、二十一か条の要求の破棄を求めて、抗議行動をおこした。
この運動は中国全土に広がり、日本などの帝国主義勢力や軍閥に反対する愛国的民主運動へと発展した。中国の人々は強く反発し、5月9日を「国恥記念日」として、各地ではげしい反日運動となる。
これをきっかけに、孫文らは1919年に中国国民党を結成し、1921年には中国共産党も結成された。両党は協力して軍閥打倒をさけぶとともに、イギリスや日本などの帝国主義勢力に対抗した。
孫文のあとをついだ 国民党の蒋介石は、1926年から1928年に北伐(北方軍閥を倒すための闘い)を行い、1927年4月、南京に国民政府を樹立した。
二十一か条の要求
日本政府は政情の不安定な中国の袁世凱政府に対して、1915年1月、二十一か条の要求をつきつけた。
二十一か条の要求のなかで、日本は中国に対して、➊山東省にあるドイツの権益を受けつぐこと、➋旅順・大連の租借期限や南満州鉄道の利権の期限延長、➌南満州や内モンゴルでの日本の利権の拡大、➍日本人を政治・財政・軍事顧問として中国政府に採用することなどを要求した。
三・一独立運動
日本からの独立を求めていた朝鮮では、1919年3月1日、京城(現在のソウル)で日本からの独立を求める宣言が発表され、人々は「独立万歳」をさけんでデモ行進をした。この動きは、朝鮮全土に広がった。
日本は警察や軍隊を動員して、これを鎮圧したが、政策転換をせまられ、憲兵(軍事警察官)が主体だった警察制度を改め、朝鮮語の新聞・雑誌の発行を許可するなど、武力による支配をゆるめた。しかし、その後も朝鮮の近代化を求める動きは活発になり、独立運動も国の内外で続けられた。
インドの民族運動
戦争に協力すれば自治と認めるという約束をイギリスを守らなかったため、独立をめざす運動が高まりました。。ガンディーが、非暴力、不服従を唱え、独立運動を指導。完全な自治を求めました。
大正デモクラシー
- 民本主義…吉野作造が、普通選挙によって国民の意向を政治に反映させることを主張。
- 天皇機関説…美濃部達吉が主張した、主権は国家にあり、天皇は国家の最高機関として憲法に従って統治するという憲法学説。
1912年に労働者の地位向上をめざして設立された友愛会は、1921年には日本労働総同盟へと発展し、その後の労働運動を指導するようになった。やがて、各地で労働争議が続発していった。この間、1920年5月2日には、上野公園 (東京都台東区)で約1万人を集めて日本初のメーデーが開催され、労働者の団結による地位の向上を訴えた。深刻な不景気は農村にも大打撃をあたえ,各地で小作料の引き下げなどを求めて,小作争議が続発するようになった。1922年には、農民の地位向上をめざして、全国組織の日本 農組合が結成され,農民運動に指導的な役割をはたした。
社会運動の広がり
労働者の増加により、労働争議(労働者と使用者の間の紛争)も増加。友愛会が1920年に日本で最初のメーデー(労働者による大規模な集会)を主催。友愛会は、日本労働総同盟と改称し、労働者の団結と労働条件の改善を求めました、
また、小作料の減額を求める小作争議が増加。日本農民組合が結成され、農民運動を指導。社会主義活動の活発化。ロシア革命により、共産主義の関心が高まる。日本共産党が結成された。
女性運動の台頭
1911年に、平塚らいてう(雷鳥)らは青踏社を結成し、女性だけの雑誌『青靴』を発行して、「新しい女」を主張した。
1920年には、平塚雷鳥や市川房枝らが新婦人協会を設立して、女性が政党に加入したり、演説会に参加したりする自由を求め、婦人参政権獲得のための運動も進めた。
解放運動
社会的・経済的に差別を受けてきた被差別部落の人々も、社会運動の高まりのなかで、自らの手で人間としての平等を勝ちとり。差別を自主的に撤廃しようとする部落解放運動を本格的に展開するようになった。
1922年、全国水平社を結成し、解放運動をねばり強く進めていった。 さらに、社会主義運動も政府の弾圧のなかでも進められ、1922年には日本共産党がひそかに結成された。
- 部落解放運動…被差別部落の人々が自らの力で平等を勝ち取り、差別からの解放をめざす運動。全国水平社は、1922年京都で結成される。
- アイヌ民族の解放運動…1930年、北海道アイヌ協会を結成。日本社会の同化政策に反対する。
護憲運動
第一次護憲運動
1912(大正元)年、西園寺公望内閣は、軍部の反対で辞職した。
そのあと組閣した桂太郎は、陸軍出身で長州閥であったことや議会を無視したため、1913年にかけて、尾崎行雄(立憲政友会)や犬養毅(立憲国民党)らを中心に、「閥族打破・憲政擁護」をかかげた第一次護憲運動がおこった。運動は国民の支持をうけ、稚内閣は倒れた。
政党内閣の成立
1918年、米騒動で寺内正毅内閣が総辞職したあと山県有朋らの元老も政党内閣を認め、立憲政友会の原敬を首班とする内閣が登場した。原敬内閣は、陸軍・海軍・外務の3大臣を除いて、立憲政友会のメンバーで構成され、はじめて本格的な政党内閣が成立した。
- 米騒動の原因…シベリア出兵を見こした商人たちが、米を買い占めたため、米の値段が急激に上がったから。
- シベリア出兵…世界大戦が終わると、列国は、まもなくシベリアから撤兵したが、日本だけが1922年まで出兵を続け、国の内外から非難を浴びた
第二次護憲運動
原敬内閣・高橋是清内閣の政友会内閣のあと、再び軍人・官僚出身の内閣が続いた。1924年、枢密院議長の清浦奎吾が貴族院を中心とする内閣を組織すると、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の3党(護憲三派)が、世論の支持をうけて第二次護憲運動をおこした。
護憲三派は5月の衆議院選挙で圧勝し、加藤高明(憲政会)を首班とする護憲三派内閣が成立した。
普通選挙法と治安維持法
加藤高明内閣の下で、1925年に、満25歳以上の男子に対する普通選挙法が成立した。しかし、婦人参政権は認められず、また同時に治安維持法が制定され、社会主義・共産主義運動に対する弾圧は強まった。
- 普通選挙法の成立…1925年、納税額による制限を廃止し、満25歳以上の男子選挙権を与えました。
- 治安維持法…治安維持法は普通選挙法と同時に制定。共産主義に対する取り締まりを強化。加藤内閣以後8年間、政党の総裁が内閣を組織。憲政の常道という。
犬養毅内閣
1932年に犬養毅内閣が、五・一五事件で倒れるまで、議会で多数を占める政党が内閣を組織する政党内閣が続いた。
- 五・一五事件…海軍の青年将校の一団が、首相官邸をおそって、「満州国」承認に反対する態度をとったとして、犬養毅首相を殺害した事件
大正文化
- 教育の広がり…中等・高等教育の普及が進み、進学率が高まった。
- 大衆文化の発展…新聞や雑誌が普及し、ラジオ放送も始まった。
- 新しい思想や文化…白樺派の作家や芥川龍之介らが作品を発表。
- 都市の生活…ガス、水道、電気が普及し、働く女性が増加した。1923年に関東大震災が起こり、東京や横浜は大きな被害を受けた。
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